第十八話 奴国と伊都国の争い

本当は恐ろしい駅名と古代史

 昨年十月、九州で講演会があり、北九州空港から大分県日田市に入った。途中、初めて筑豊の炭田地帯を通ったのだが、昭和四十年代の小学生の教科書に載っていた「ぼた山」(掘り出した岩石や商品にならない粗悪な石炭を積み上げた山)が見当たらず、すでに切り崩してしまったのかと思った。ところが、帰ってきて調べてみて分かったのだが、どうやら長い年月の間に、緑に覆われ、普通の山と見分けがつかなくなってしまったらしい。残念なことをした。
 蒸気機関車が走っていた時代、石炭は大切なエネルギー源だった。多くの労働者が筑豊に集まり、栄えた。一方で、落盤事故やガス爆発などの悲惨なニュースも相次いだものだ。日本の成長を支え続けてきた筑豊地帯。その歴史の痕跡を、一目見ておきたかったのである。
 ところで北部九州には、意外な形で「石炭採掘の痕跡」が残っている。たとえば、福岡市の東側を南北に走るJR香椎線がそうだ。
 内陸部の「宇美駅」(福岡県糟屋郡)から、「香椎駅」(福岡市)、海ノ中道を経由して、志賀島の手前「西戸崎〈さいとざき〉駅」に至る。鹿児島本線を横切っていて、かねてより不思議な場所を走っているなとは思っていたのだが、この路線は炭田とかかわりが深かった。糟屋炭田でとれた石炭を宇美駅から港(西戸崎)に運んだ。要は、海軍の軍艦に提供するために、鉄道が敷かれたのである。

JR香椎線西戸崎駅。博多湾を囲む海ノ中道の先端に位置する。

 興味深いのは、香椎線が神功〈じんぐう〉皇后と縁の深い場所をつないでいることで、「宇美」は神功皇后が新羅征討から凱旋し応神天皇を産んだ場所、もうひとつの終点・西戸崎のさらに奥には、阿曇氏と関わりの深い志賀海〈しかうみ〉神社が鎮座する。神功皇后の新羅征討の際、阿曇氏の祖神・磯良丸が加勢したことは、前回お話ししたとおりだ。
 そして香椎といえば、仲哀〈ちゅうあい〉天皇と神功皇后が熊襲征討の拠点にした香椎宮(橿日宮〈かしひのみや〉)が鎮座する。いわば香椎線は、神功皇后の伝説を訪ね歩く路線でもある。

福岡市東区香椎にある香椎宮。神功皇后が植えたとされ、樹齢1800年を超える大杉が御神木。


 ところで、もともと「香椎宮」は「橿日宮」だったのに、別の漢字をあてがわれるようになった理由は、ちょっと不気味だ。
 香椎宮で神功皇后は神託を得た。「熊襲にかまっていないで、新羅を攻めるべきだ」という。しかし夫の仲哀天皇は神の言葉を無視したため、神の怒りに触れ香椎宮で急死してしまう。この時仲哀天皇の死は極秘扱いされたのだが、神社の伝承によれば、仲哀天皇が亡くなると棺を「椎の木」に立てかけ、生きているようにみせかけて軍議を開いたという。すると「薫香」が漂ったので「香椎」の名が生まれたという。なんとも、オカルトじみた説話ではないか。
 
 香椎宮は、東側の勢力が福岡平野を押さえ、北部九州に睨みをきかせるためにもっとも適した高台だったが、もうひとつ大切なことは、ここが阿曇氏の勢力圏、「魏志倭人伝」にいう奴国〈なこく〉の一部だったことだ。
『日本書紀』は神功皇后の時代に「魏志倭人伝」を引用していて、「神功皇后は邪馬台国の時代の人」といっているが、通説はこの記事を笑殺し、神功皇后は架空の存在と決め付ける。しかし筆者は、神功皇后を「邪馬台国の時代に活躍したヤマト建国の立役者」とみる。『日本書紀』の記した神功皇后の行動がことごとく理に適っているのは、そのためと考える。
 神功皇后一行は九州にやってくる直前まで穴門豊浦宮〈あなとのとゆらのみや〉(山口県下関市)に六年弱逗留〈とうりゅう〉していたと『日本書紀』は記録している。ところが、いざ西に向かうと、北部九州の沿岸地帯の首長(王)たちが、こぞって恭順してきた。その中の代表格が、伊覩県主〈いとのあがたぬし〉で、「魏志倭人伝」に登場する伊都国のことだ。
 ここで、ふたつの大きな問題が持ち上がってくる。
 まず第一に、恭順してきた首長の中に、奴国の王が含まれていない。奴国は『後漢書』にあるように、倭を代表する地域だったのに、なぜ『日本書紀』は、奴国を無視してしまったのだろう。ただ「儺県(奴国)」に仲哀天皇の一行がやってきたことだけを記録している。しかし神社伝承によれば、神功皇后は阿曇氏の祖を重用していたはずだ。もちろんそれが磯良丸だ。ふたつの異なる証言をどう考えるべきか。
 第二の問題は、北部九州沿岸地帯の勢力図のことだ。「魏志倭人伝」は、邪馬台国の北側に一大率をおいて諸国を検察させ、みな怖れていたとある。これが伊都国で、邪馬台国の時代になると、北部九州沿岸地帯の覇権は、奴国から伊都国に移っていた可能性が高い。
 そうなってくると、やはり奴国の阿曇氏の存在が、妙に気になる。神社伝承に残された神功皇后の「奴国、阿曇氏に対する依怙贔屓〈えこひいき〉」を、どう考えればよいのだろう。

 意外なヒントがある。それは、大分県日田市から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡〈きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう〉で、後漢の王族だけが持つことを許された特別な鏡だ。こんな貴重な品物が、なぜ内陸部の日田盆地から出土したのか、大きな謎が残されていた。
 九州国立博物館・文化交流展示室長の河野一隆は、後漢の時代の最先端地域は奴国であり、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を手に入れられたとすれば奴国だったとまず考えた。その上で、伊都国との主導権争いに敗れた奴国は、日田にお宝を持ち込んだのではないかと推理したのだ。

日高町 東寺にあったダンワラ古墳(1933年消滅)から出土した弥生時代中期(1~3世紀)の鉄鏡。


 この仮説は、邪馬台国とヤマトと神功皇后と阿曇氏の謎を解いてしまうと思う。
 まず、「日田の特別な地の利」から説明しておかなければならない。
 北部九州は鉄器や先進の文物の保有量で他地域を圧倒していたが、ひとつ、防衛上の弱点を抱えていた。いったん東側の勢力(具体的にはヤマト)に日田の盆地を押さえられてしまえば、手も足も出なくなるのだ。日田盆地は筑紫平野から筑後川を溯り、渓谷をさらに上った先で、西側からの攻撃に頗る強く、また逆に、日田から船団を組んで筑後川を一気に下りれば、筑紫平野を圧倒することができた。近世に至って徳川幕府が日田を天領にしたように、ここは戦略上の知られざる要衝だったのだ。
 ヤマトに関門海峡を支配され、日田の盆地を押さえられてしまえば、北部九州沿岸地域諸国は身動きがとれなくなる。実際、ヤマト建国の前後、日田の盆地を見下ろす高台(小迫辻原〈おざこつじばる〉遺跡)に、ヤマトが拠点を構えているし、『日本書紀』は、神功皇后が関門海峡を突破すると、北部九州沿岸地帯の首長たちがこぞって恭順してきたと記録する。要は、ヤマトの「地勢を利用した的確な戦略」が功を奏したのだろう。
『日本書紀』は、神功皇后が山門県(福岡県みやま市)の女首長を滅ぼして九州征討を終えたと記すが、邪馬台国北部九州説の最有力候補地が「山門」であり、一連の説話は、ヤマトによる邪馬台国(山門)成敗ではなかったか。
 江戸時代の国学者・本居宣長が唱えたように、急速に発展したヤマトに対抗するため、邪馬台国は中国の魏(『三国志演義』の諸葛孔明の敵)に接近し、「われわれがヤマト(邪馬台国)」と偽り、親魏倭王の称号を獲得し、虎の威を借りて優位に立とうとしたのだろう。だが、これが仇となった。ヤマトの神功皇后らは穴門豊浦宮に拠点を構え、さらに日田を奪い、関門海峡を支配して、北部九州沿岸地帯に乗り込んだにちがいない。
 そこで問題となるのは、奴国だ。
『日本書紀』は神功皇后説話の中で奴国を無視し、「魏志倭人伝」は、「奴国よりも伊都国が上」と記録した。一方、神社伝承を総合すれば、東から九州にやってきた神功皇后は、奴国の阿曇氏の祖を重用していたことになる。
 伊都国に覇権を奪われた奴国は、ヤマト側を手引きし、劣勢を挽回しようと目論んだのだろう。だから、後漢からもらい受けた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を、ヤマトの拠点である日田に持ち込んだのではなかったか。
 ただしこの話、まだ先がある。続きは、次回。

関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。