第11回 僕は何度でも立ち上がる

不登校日記
 これは、僕が小学三年生になり、S先生と畑でバッタを捕まえていた時のことだ。僕の目の前に、一匹のモンシロチョウが飛んできた。僕はそれについて行ったが、蝶は校舎の影に入ってしまった。僕が後を追うと、そこにモンシロチョウの姿はなく、あるのは一面に咲き乱れる白いえんどう豆の花だった。気のせいか、そのうち二枚が蝶の羽のように揺れていた。
 僕がその時、S先生の前で詠んだ俳句だ。

ゆっくりと花びらになる蝶々かな

ちょうちょ解説
 
 それをS先生が連絡帳に書いて家に知らせて下さった。
 他にも、その時の女の教頭先生が、いつも廊下に花を生けておられたのを見て詠んだ句、

ススキの穂こうべを垂れて生けられし
 
なども連絡帳に書かれていて、S先生は、僕が学校で詠んだ俳句を家族に伝えてくださった。蝶々の俳句を見て、祖母は「へえー」と言っただけだったが、母はたいそう気に入って、秀作と言ってくれた。
 数年後、僕の一冊目の本『ランドセル俳人の五・七・五』が出た時、長谷川櫂先生が、読売新聞の「四季」というコーナーにこの俳句を載せてくださったのだ。これも、畑で蝶に会い、とっさに僕の口から出た俳句を、連絡帳に書いてくださったS先生のお陰だ。
 次に来られた教頭先生もまた女の先生で、大らかでユーモアたっぷりの先生だった。僕はその先生との話が楽しかった。5年生の時、僕は不登校だったが、ある日、家に来られた教頭先生と祖母が、ある新聞記事の話をしていた。8歳の女の子が難しい言葉を使って、原爆のことを俳句に詠んだという記事だった。僕は横でプラモデルを作りながら、すごいなぁと思いつつ、8歳でこんな俳句を作る相手に負けじという、元来の負けず嫌いが顔を出したのか、それとも、自分も原爆やヒロシマを俳句に詠みたいというひらめきだったのか、気づけば二人の前で「一句できた!」と叫んでいた。

 形無し音無しけれど原爆忌

  教頭先生は目を見開いて「それ、今作ったの!?」と驚きの表情をされた。この句は、この教頭先生との思い出だ。後に、長谷川櫂先生が『こども歳時記』に載せてくださった。

 しかし、認めてくれる人ばかりではなかった。祖母が当時の校長に僕の俳句を見せたら、校長の口からは思いがけない言葉が出てきた。
「俳句だけじゃぁ食べていけませんで」とだけ言って笑ったのだ。
 祖母はその帰り、田んぼ道を歩きながら涙が出たそうだ。
「八歳や九歳で将来の仕事が決められますか」と母に言った。当時、僕の将来の選択肢には「俳人」になろうなんて発想はなかった。機械いじりが好きで、将来はロボット学者になりたいと思っていたのだ。俳句は将来のことを思って始めたわけでもない。つらいとき、孤独なときに僕の心が五・七・五という十七文字に表れた、というのが本当のところだ。僕にとっての『アンネの日記』のようなものだった。祖母は、家での僕の様子を伝えたくて俳句を見せただけだったのだ。

 それだけではない。少しさかのぼり二年生の担任は、「俳句は、おばあちゃんが半分作っていたのかと思っていました」と僕の目の前で言った。僕の心の中は、その先生に対し積もっていた憎しみと屈辱感で爆発しそうだった。
 僕は小さく生まれて、体も弱かったため、同級生の遊び道具にされ、筆圧が弱く、教師からも馬鹿にされた。
 だが、こうして書いていると、僕は薔薇の先生をはじめ、温かい先生方に出会ってきたことに気づき、小学校時代を懐かしむ思いになった。また今は、同じように学校に居場所がなく、家庭学習をする境遇の人たちや、いじめを悪として、被害者の思いに共感してくれる人たちがいる。たとえあの時の校長に笑われようが、あの担任に馬鹿にされようが、僕に五・七・五という表現方法があり、もう一つのペンであるキーボードという表現手段がある限り、僕は何度でも立ち上がる。

 


小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。
小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。

小林凜 (こばやし・りん)

本名・凜太郎。2001年、5月大阪生まれ。中学3年生になった今も不登校の日々が続く。小学校入学前から句作を始め、9歳の時に朝日俳壇に「紅葉で神が染めたる天地かな」で初投句初入選。

2013年に『ランドセル俳人の五・七・五 ~いじめられ行きたし行けぬ春の雨』、翌年『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(ともに小社)を出版し、話題を集める。好きな俳人は小林一茶。母と祖母と犬と暮らす。