第2回 小学校――いじめという洗礼

不登校日記

僕が小学校に通っていた頃は、今思えば中学校よりましだったが、ましになったのは六年生に入ってからの事で、低学年は地獄のような日常だった。

入学したての一年生の時、僕はクラスで人一倍体も小さく弱かったため、大人しい同級生からも標的にされた。相手が指で拳銃の形を作り、カンチョー(指を相手の尻に突っ込むことを指す)をしに僕を追いかけ、僕はそれから逃げるため、学校中を走り回った。
ある日、僕の親の前でそれが起こった。僕がいじめについて何を訴えても「してない、してない」の一点張りの担任教師と話をするため、母と祖母が学校に到着した時の事だ。カンチョー同級生に追いかけ回されていた僕は職員室に飛び込み、倒れ込んだ。それを目撃した母と祖母が駆け寄ってきた。カンチョー同級生も後を追ってきて、手を拳銃の形にしたままうろうろしていたが、駆けつけてきた母と祖母を目にして、広い運動場へと逃亡を図った。職員室にいた担任教師が寄ってきた。僕が、「○○(その同級生の名前)がカンチョーをしに追いかけて来るんです」と訴えると、担任は、倒れ込んでいる僕を引き起こし、(引きずり起こすと言った方が正しいか)「してない、してない」と、呪文のように言っていた。その時、母と祖母は「してない、してない」を直接聞き、この担任教師の素顔を知ることが出来たのだ。
その後、話し合いに入り、担任教師は教頭と共に現れ、「見ていないのに“してない”と言いました。すいません」と言った。幼稚園を出たばかりで、悪や偽善に刃向かうこと、立ち向かうことを知らない僕は、だまってその光景を見ているしかなかった。
あの時、二人が見てくれていなかったら僕はどうなっていただろう。嘆かわしいことに、今でも校内隠蔽工作が誰にも咎められることなく許されている。それがこの世の中だ。

一年生の時の悲劇はこれだけではない。ある時、休み時間に教室内を歩いていると、背中に強い衝撃を感じ、うつぶせに倒れ込んだ。僕は左の顔面を強く床に打ち付けて、激しく痛んだ。薄目を開けると、逃げていく人影が見えた。彼は、クラス一の悪ガキ大将で、頻繁に僕を痛めつけていた。僕は保健室で治療を受けたが、顔面の左側は湿布で覆い尽くされ、左目は腫れ上がっていた。いつものように迎えに来た祖母は、その時初めて僕のけがを知り、驚いた。
僕が、突き飛ばした犯人の名を担任に伝えると、担任は、「本人が否定しています。一人でこけました」とだけ家族に言った。結局、その時は「僕が勝手にこけた」という判決になった。

さらに、こんなこともあった。夜、風呂に入っている時、母が悲鳴を上げた。僕の腰から尻にかけて、広範囲に青あざができていたのだ。もう少し上なら腎臓破裂が起こっていたそうだ。それもあの悪ガキ大将の仕業だったのだ。僕を突き飛ばし、イスの背もたれにぶつけたのだ。ズボンをはいていたため、風呂に入るまで自分でも分からなかったのだ。
翌日、僕が彼の名前を出して訴えても、担任は全く認めようとせず、僕のズボンをめくってガキ大将に見せただけだった。家族が青あざの写真を見せると、ようやく担任が「この子がやった」と連れてきたのは、なんと、事件とは何の関わりもない大人しい同級生だった。担任は、犯人をでっち上げたうえに、彼に謝れと言ったが、僕は「彼は関係ない。だから無実の人の謝罪は聞かない」と、その場を立ち去ろうとした。しかし、担任は立ち去ろうとする僕の首根っこを掴み、彼の謝罪を聞かせた。あの時、無理にでも謝罪を聞かせた担任の意図は何なのだろう。
当時の僕にとって、「教師」という人間も、「学校」という組織も理解できなかった。


小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。
小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。

小林凜 (こばやし・りん)

本名・凜太郎。2001年、5月大阪生まれ。中学3年生になった今も不登校の日々が続く。小学校入学前から句作を始め、9歳の時に朝日俳壇に「紅葉で神が染めたる天地かな」で初投句初入選。

2013年に『ランドセル俳人の五・七・五 ~いじめられ行きたし行けぬ春の雨』、翌年『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(ともに小社)を出版し、話題を集める。好きな俳人は小林一茶。母と祖母と犬と暮らす。