第9回 あの日の追憶

不登校日記
 波乱に満ちた小学校生活だったが、終盤は悪い思い出より、素晴らしい思い出の方が多かった。特に、「あの先生」のことは忘れられない。

 僕が六年生になったばかりの頃、沢山の新しい先生が入ってきた。始業式で紹介されたその先生達の中に、かなり若い先生がいた。僕はその頃、通級指導教室に登校していて、教室に行くことはなかったので、新しい先生達とはさほど縁がないだろうと思っていた。だがそれは僕の思い違いだった。
 始業式が終わり、通級指導教室の扉を開けると、そこには担任の先生と一緒に、思ってもいなかった人物がいた。それは、始業式の時に見かけた若い新しい先生だった。

 その先生とは、歳が近いせいかお互いすぐにうち解けて、色々なことを話す仲になった。ある時、僕が理科の電流回路の分野で悩んでいると、その先生は、それを得意な絵で表してくれた。電球を模したキャラクターがソケットに入っていて、ハムスターのようなキャラクターがソケットのスイッチを押して、その電流がどう流れるかを分かりやすく解説してくれたのだ。
 後に、キャラクターは徐々に増えていき、電流の解説にとどまらず、実際に冊子に描いて六コマ漫画にしたこともあった。僕も、漫画を作って、お互いの作品を見せ合って楽しんだ。

 だが、そんな平和な日々は、永遠に続いたわけではなかった。ある日、いつも来ていた先生が、職員室にも通級指導教室にも来ていない。すると、通級指導教室の担任の先生が、あり得ないことを言った。「先生は、入院されました」。暴動を起こしていた生徒を止めに入って巻き込まれ、怪我をしたそうだ。僕は、ずっと先生を待ち続けた。
いつかまた一緒に漫画が描ける日が来るのを待っていたが、ようやく先生が帰ってきたのは、僕も先生もこの学校を去る時が近づいていた三学期の頃だった。先生は、僕と僕がこれまで出会ってきた生き物たち(バッタやテントウ虫、蝉、とんぼ、飼っていたヤドカリ、今は亡き愛犬のアベル、そしてそれらに囲まれた僕)の絵を描いてくれた。その絵は、今僕の使っているパソコンの隣に飾ってある。
 最後の時まで僕と先生は漫画を描いた。それらは全て専用のバインダーに閉じてあるが、その数は、バインダーが膨らみすぎて半開きになるほどにも及んだ。

 先生は、僕が下級生に暴力を振るわれ、話し合いになった時も、否定し続ける相手を前に、「私も見ていました」と事実を証明してくれた。見ていた先生が言うのだからもう言い逃れはできない。悪事を暴かれた相手は逆上し、暴れ回ったが、すぐこの一件は幕を閉じた。もし、あの先生の証言がなければ、この事件は「僕の被害妄想」として、闇に葬り去られていただろう。

 僕はその時、ある経験を思い出した。僕がかつて上級生に階段で突き飛ばされ、危うく転がり落ちかけた事があった。その時、僕はその上級生の担任に謝らせるように言ったが、担任の口から出てきた言葉は、「証拠持って来い」。それだけだった。
 最終的には、互いの親が話し合い、相手の親と本人が謝罪してくれた。彼とは今では道で会ったら手を挙げて挨拶を交わす仲になっている。だが、今回は先生が証言して事実を照らし出してくれた。それは僕の為だけでなく、相手の為でもあると母は言う。あの時の彼が完全に改心したかは分からないが、あの先生が、彼の心に何かを与えた事は間違いない。

 節分の時に僕が詠んだ俳句に合わせて、絵を描いてくださいました。

豆まきを忘れ気づけばそばに鬼

豆まき

幸せを分け合うバレンタインの日

 別れの年のバレンタインの時に先生から頂いた絵


別れの年のバレンタインの時に先生から頂いた絵

先生と会えなくなった今でも、半開きのバインダーを開けば、二年前のあの日に戻り、先生と出会い、過ごした思い出が蘇る。

 


小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。
小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。

小林凜 (こばやし・りん)

本名・凜太郎。2001年、5月大阪生まれ。中学3年生になった今も不登校の日々が続く。小学校入学前から句作を始め、9歳の時に朝日俳壇に「紅葉で神が染めたる天地かな」で初投句初入選。

2013年に『ランドセル俳人の五・七・五 ~いじめられ行きたし行けぬ春の雨』、翌年『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(ともに小社)を出版し、話題を集める。好きな俳人は小林一茶。母と祖母と犬と暮らす。