第21回 連帯責任という伝統~体育の悪夢~

不登校日記

 「連帯責任」。この言葉を聞く度、あの時のことを思い出す。連帯責任とは、一つの集団で、チームの一人が失態を侵せば、そのチーム全体が罰を受けるというシステムである。元を辿れば、(ただ内容が似ているというだけで、これが元なのかは分からないが)江戸封建時代に「五人組」という制度があった。その内容は、百姓や町人が五人の組を作り、その内一人でも罪を犯したり年貢を滞納すると、後の四人全員が同じ罰を受けるというシステムである。近代的自治法の整備と共に消滅したが、戦時中に「隣組」という形で名と内容を変えて復活。それも戦後GHQによって消滅した。しかし、集団生活を送る場に「連帯責任」という名を持ち再び蘇った。
僕はそのシステムを知った時、「なぜこんなシステムが認められているのだろうか」と疑問を抱く一方、「そんな集団に入らなければ終わりの話だ。まさか僕が通う学校で起こるまい」と安堵した。その安堵は一瞬で砕け散るとも知らず。
 それは僕が新しく通い始めた中学校で起こった。転校して初めての体育の時間。運動場に全員集合し、ランニングを始めようとした。
この学校の体育の時間は、授業の前に、準備体操の一環として、運動場の場合は運動場三周、体育館の場合は体育館五周するのだ。
 授業が始まり、列になった僕たちの前に体育教師が現れ、「えー、今日は忘れ物をした人が二人いたので運動場ランニングをプラス二周して五周にします」と言った。僕は激しく動揺したが、他の生徒達は焦ったり憤ったりする様子は何一つ見せなかった。どうやら彼らにとってはこの連帯責任は当たり前のようだった。僕は元々体力が無く、通常の三周を走ったところで苦しくなってきたので、一度休もうと列を抜け、日陰の石段に座って居た体育教師の横に座ろうと思って列を出た。    
十歩も行かない内に何者かに肩を持たれた。振り返ると、それはさっきまで日陰で座っていた筈の体育教師だった。僕は「しんどくなってきたので休ませてください」と頼んだ。だが、体育教師からは普通ではあり得ない言葉が返ってきた。「みんなしんどい。でもみんなやってるんやから列に戻りなさい」。こうして僕は倒れそうになりつつ、灼熱の夏の運動場を五周した。これはもう学校ではない。テレビで観た昭和の軍隊だ。
 五周のランニングが終わり、再び列が出来ると、体育教師が前に出て、「今日忘れ物した人は前に出てください」と言った。どうやら彼女の叱責を受けるようだ。だが、忘れ物をした生徒が前に出ると、彼らは謝罪の一言も述べず、代わりに体育教師が「何て言うの?」と皆に向かって言った。すると、忘れ物をされたことによって連帯責任を課せられた生徒達が、前に並んだ忘れ物をした生徒達に向かって「運動させてくれて有り難うございました」と言って頭を下げた。よく見ると、僕を列に戻しに来た時以外全く歩いていない体育教師も頭を下げていた。この奇妙な光景に、状況が飲み込めないまま僕も頭を下げた。
 その時もう一つ恐ろしく感じたのは、生徒達の表情だ。怒り、疑問、悔しさ、もちろん笑いや喜びもない無表情とも言える顔で、ただただ頭を下げていたのだ。
 それから、こんな事もあった。その時の体育は体育館で、僕は体育館シューズを持って体育館へと急いだ。だが、僕はとんでもないことをしてしまったことに気づいた。体育ノートを教室に忘れてしまったのだ。まだ休み時間は終わっていない。走って取りに行けば間に合うと思ったその時、さらに、まだ休み時間であるにも関わらず、体育教師が笛を吹いて授業を始めたのだ。
このままでは僕のせいで、連帯責任によって罰を与えられたクラスメートから様々な意味でボコボコにされてしまう。僕は体育教師に事情を説明して教室に取りに戻った。ノートは学校に持って来てはあったので、授業に多少遅れてしまっただろうが、遅刻は減点にはなるかもしれないが、連帯責任の対象にはならない、と思った。何とか連帯責任は回避出来たはずだ。だが、体育教師は「遅刻と忘れ物もあったので、体育館六周」と言い渡した。遅刻をチェックされるだけでなく、忘れ物をしたとして、体育館プラス一周と言うのだ。僕は「ノートは家に忘れたわけじゃないし、ちゃんと持ってきたじゃないですか」と抗議した。すると体育教師は「体育館と教室は建物が違うから忘れ物となる」と言った。そしてその後は言うまでもあるまい。
 僕が忘れ物をしたことによって連帯責任の罰を受けたのはそれっきりだったが、その後も、体育の授業の度に誰かが忘れ物をして、その度に関係のない生徒が走らされた。その度、体育教師は見ているだけだった。そして最後には決まって「運動させてくれて有り難うございました」の合唱が響く。だが、なぜかはわからないが、僕が教室に忘れ物をした時には「有り難うございました」と言われた記憶はない。先生がうっかり忘れただけなのか、それとも・・・。最も、そんなことでありがたがれても、こちらは何一つ嬉しくない。
 僕の話を聞き、体育教師の教育方針に疑問を持った母は抗議した。すると、その場にいた学年主任は「みんなで忘れ物しないように声を掛け合い協力し合う、我が校の伝統です」と言った。今、彼らに向かってこう言いたい。確かに声は掛けるでしょう。しかしそれは忘れ物をし、皆の前でさらし者にされている生徒に対する無言の嘲笑と憎しみの声であって、仲間を思いやる友愛の声ではない。教師達が知っていないだけで、裏ではその伝統は、生徒の人間性を削ぎ取り、陰湿ないじめの火種を撒いているのだ。
僕が抗議した時は体育教師に「過去に十周走らされた時もあったんやから」と言われた。「だからどうしたんですか?過去に十周した人たちがいたのだから五周くらい耐えろと言いたいのですか?回数の問題ではなく、この罰則の不条理さを言いたいのです」こんな言葉を言いたかったのだが、当時の僕はそれを飲み込むしか無かった。
 母は、「連帯責任を使って仲間作りができる筈もない。この制度に何の教育的意義も認めない。」と抗議した。母の抗議により、この学校に何年も前から根付いていた連帯責任制は終わりを遂げた。一保護者の一言で長く続いた伝統が一瞬で消え去ったこと、それこそがその伝統が「間違っていた」証拠だ。自分達が正しいと思うならば、続ければ良いのだ。
だが、僕には未だ一つ疑問があった。何故この連帯責任制に、これまで他の保護者は声を挙げなかったのだろう。
 それからしばらくして、僕は学年主任と合わせて四人の教師に、相手の聞き間違いで僕が「きしょい」(気持ち悪い)と言ったということで謝罪を強要された。「きしょい」の一言で夜の七時まで、四人の教師に囲まれ、学校に残され居残りを喰らった。
僕はこの学校に来て「きしょい」と言われたことはあっても、今も昔もこの言葉を使ったことは一度もない。保護者には何の説明もなく、学校から夜になっても帰宅しない僕を家族はどんなに心配したことだろう。後で、「十三才の子どもを保護者に理由も言わず、夜七時まで帰宅させない学校があるのか」と家族は怒った。
僕は、なぜ今まで他の保護者はおかしいものをおかしいと言わなかったのか、その理由が分かった。この学校では親が声を挙げると、それは別の形で全て自分の子供に返ってくるからだったのだ。やっとそれに気づいた。

 


小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。
小林凜 (左)。右はひとつ年下の濱口瑛士くん (著作『黒板に描けなかった夢』)。同じく不登校に悩みながら、芸術活動を続ける仲間として交流している。

小林凜 (こばやし・りん)

本名・凜太郎。2001年、5月大阪生まれ。中学3年生になった今も不登校の日々が続く。小学校入学前から句作を始め、9歳の時に朝日俳壇に「紅葉で神が染めたる天地かな」で初投句初入選。

2013年に『ランドセル俳人の五・七・五 ~いじめられ行きたし行けぬ春の雨』、翌年『冬の薔薇立ち向かうこと恐れずに』(ともに小社)を出版し、話題を集める。好きな俳人は小林一茶。母と祖母と犬と暮らす。