第十四話「長野新幹線と古代史の妙なつながり」其ノ五




 平成9年(1997)の長野新幹線(現北陸新幹線)開通によって、信越本線(在来線)の横川と軽井沢の間の路線は廃止されてしまった。
 勾配が急だったために、かつてはアプト式の機関車が走っていたことでも知られている。アプト式に代わり、強力なパワーの機関車を横川駅で連結して走っていた(機関車をつなぐ時間が少しかかったので、ここで「峠の釜めし」が、よく売れたわけである)、鉄道ファンなら誰もが知っている、碓氷〈うすい〉峠を走る路線が消えてなくなってしまったのは、じつに哀しいことだ。



碓氷第三橋梁、通称めがね橋。明治25年からアプト式鉄道を支えてきたが、昭和38年に廃線に。今は橋の上を歩くことができる。


 信越本線は長い間、関東と日本海側を結ぶ大動脈だった。だからどんな急勾配であろうとも、鉄路は碓氷峠を越えなければならなかったのだ。
「え、上越線は?」
 と、あなた、聞いちゃいました?
 意外に新しいのですよ、上越線。
 川端康成の小説『雪国』の冒頭部分、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」
 で知られているから、さぞかし歴史が古いのだろうと思いがちだが、あにはからんや、開通したのは、昭和6年(1931)のことだった(古いじゃないか!! と叫んだ人は、平成生まれか? オイドンがオッサンということなのか?)。三国山脈が立ちはだかっていて、ここを抜けることができなかったのだ。清水トンネル(9702メートル)が完成して、ようやく関東平野と新潟県がつながったのである。
 それがどれだけ画期的だったかというと、急行で11時間かかっていた東京―新潟間が、7時間で行けるようになったのだ。この差は大きい。一気に4時間短縮されたのだ。
 ところで、近代日本の歩みと鉄道の発展は切っても切り離せないが、戦前戦中の国鉄は、「まず貨物ありき」だった。鉄道は国策によって造られ、物資だけではなく、兵器、兵士の輸送で大活躍をしたのだ。だから戦後になっても、旧国鉄時代、しばらく「貨物部門」は花形部署で、国鉄内部で威張っていたのだ。自動車の高速道路網が整備されていくうちに、「貨物部門」は零落していくのだが……。
 だからおそらく、上越線の清水トンネルが掘られたのも、「人びとの暮らしぶりをよくしたい」という話ではなく、日本海と関東平野を結ぶ大動脈(もちろん、物資や兵器を運ぶのだ)を構築しなければならないという、切羽詰まった時代の要請から造られたのだろう。
 国策を遂行する国鉄にすれば、三国山脈は、邪魔でしかなかったろう。迂回するにしても、碓氷峠を越えねばならぬ……。厄介な話だったのだ。

 さて今回は、長野編の最後だ。ずいぶん間延びしてしまった。前回原稿を書き上げたのは、たしかラグビーのワールドカップでJAPANが南アフリカ戦に勝利するよりも以前のことではなかったか。ラグビーキチガイのオッチャンにとって、それは「紀元前」の話なのだ。「あり得ないことが起きた」南アフリカ戦が、新しい紀元、元日ということになるのだから。
 とはいっても、ラグビーにうつつを抜かしていたわけではない。オッチャンは、いそがしかったのだ。死ぬかと思ったぞ。許しておくれ。
 そこでついでだから、文句も言っておく。生涯でもっとも多忙なのに、年収が右肩下がりというのは、いかがなものか。出版不況、恐ろしや。こうなったらもう電車の中にスマホ持ち込み禁止令だな。みつかったら、市中引き回しだよ。獄門磔まではしないけどね。電車の中は文庫本。これが、かっこいい大人の常識。
 今回の話は、またまた大糸線の「穂高駅」だ。長野編其ノ参で、言い忘れていたことがあった。「穂高」の駅名は、穂高岳があって穂高神社があるからだと書いたが、それだけでは答えになっていなかった。この地に根を下ろした阿曇氏の祖神が、穂高見命だということを説明しなければ、「なぜ穂高なのか」の答にはなっていなかったのだ。迂闊であった。



北アルプスからの湧水が豊かな安曇野。穂高駅はその玄関口。


 ただし穂高見命は、『日本書紀』や『古事記』には登場しない。ここがややこしいところだ。
『日本書紀』はイザナキとイザナミが大八洲国(日本列島)を生み落としたあと、海と山の神を生んだとある。それが、少童命〈わたつみのみこと〉と山祇〈やまつみ〉だ。また、それとは別に、イザナミの死後、イザナキが黄泉国から逃げ帰り、穢れを祓った時、海の底に沈んですすぐと、底津〈そこつ〉少童命・中津少童命・表津〈うわつ〉少童命が生まれ、この神が阿曇連〈あずみのむらじ〉の祀る神だとある。『古事記』には、阿曇連の祖は綿津見神〈わたつみのかみ〉といい、綿津見神の子の宇都志日金拆命〈うつしひかなさくのみこと〉の末裔が阿曇連とある。阿曇連の祖神が綿津見神ということは分かるが、穂高見命は歴史書には登場しない。けれども、無視できない神様だ。
 対馬(長崎県対馬市)に鎮座する和多都美〈わたづみ〉神社に、次の伝承が残されている。
 海神〈わたつみ〉・豊玉彦命〈とよたまひこのみこと〉はここに宮を建て、穂高見命と豊玉姫命、玉依姫命〈たまよりひめのみこと〉が生まれた。そこにやってきたのが、彦火火出見尊〈ひこほほでみのみこと〉(山幸彦)で、ようするに『日本書紀』や『古事記』に記された「海幸彦・山幸神話」に登場する「海神の宮」は、対馬の和多都美神社だったといっている。彦火火出見尊は3年間ここで暮らし、豊玉姫命と結ばれた……。
 彦火火出見尊と豊玉姫命の間に産まれた子が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊〈ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと〉で、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命の間に産まれたのが神日本磐余彦〈かむやまといわれびこ〉(神武天皇)なのだから、穂高見命は、妹を通じて黎明期の王家と強くつながっていたということになる。また、穂高見命の末裔が、阿曇氏(連)だと伝えている。
 とはいっても、このような話を史学界は真に受けていない。しかし、だからといって阿曇氏を軽視すべきではない。阿曇氏は福岡県東部で勃興した古代豪族で、ここはまさに「倭の奴国」の領域であり、邪馬台国が出現する以前、倭国の中心だった場所だ。志賀島の金印は、「倭の奴国王」に贈られたもので、阿曇氏は九州と朝鮮半島を股にかけて活躍していたのだろう。阿曇氏の祖は、倭国を代表していたのだ。また「魏志倭人伝」には、対馬の海人たちは、農業で暮らしていけないので、南北に市糴〈してき〉して生計を立てていたと記録する。彼らは優秀な海の民であり、だからこそ、活発に外交戦を戦っていたということだろう。
 ところで、阿曇氏には大きな謎がある。弥生時代をリードしていた彼らが、ヤマト建国後、どのような活躍をしていたのか、はっきりとわからないのだ。
三世紀後半から四世紀にかけて、北部九州はヤマト建国に出遅れてしまっている。北部九州には、巨大な前方後円墳もない。それでも、厖大〈ぼうだい〉な鉄器を保有していたであろう彼らが、そのままおとなしく消えていったとも思えない。たまたま、信州に穂高神社が祀られていたことから、「日本列島を覆う何かしらのネットワーク」を構築しいていたのではないかとも考えられる。
 無視できないのは、神功皇后伝説の中で、阿曇氏の祖が大活躍していることなのだ。『宗像大菩薩御縁起』〈むなかただいぼさつごえんぎ〉には、次の話が残されている。
神功皇后と武内宿禰〈たけのうちのすくね〉が新羅征討を計画していた時、海の神・志賀島明神〈しかのしまみょうじん〉が磯良丸〈いそらまる〉(安曇磯良丸〈あずみいそらまる〉)に身をやつし、ときどき姿を現していた。磯良丸は水陸自在の賢人であるから、これを取り立てようと勅命が下ったが、磯良丸は応じなかった。そこで武内宿禰は一計を案じ、天の岩戸神話の故事にならい、歌舞音曲を奏で、八人の天女が舞った。すると磯良丸は童子の姿で亀の背に乗って登場した。なかなか出てこなかったのは、貝や虫が体にこびりついて醜態をさらしたくなかったのだという。こうして磯良丸は、水軍の楫取〈かじとり〉を命じられたのだった。
 このあと神功皇后は、新羅から凱旋し九州で応神を産み落とし、ヤマトに向かうが、政敵と戦う羽目に陥る。『日本書紀』は「最後に神功皇后が勝った」というが、実際には彼らはヤマトに裏切られ、南部九州に逼塞したのではないかと筆者は疑っている。ここに、大きな古代史の大きな秘密が隠されていると思うのだが、その話は別の機会に譲ろう。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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