第二話 ちょい悪色男の元祖は在原業平だった!? ……「業平橋駅続編」




 そもそもなぜ東京に、業平橋なる駅名が残ったのだろう。
 業平橋駅の由来は、もちろん近くに業平橋がかかっていたからだ。
 すでに十七世紀(江戸時代)、大横川に橋は架かっていた。ならばなぜ、橋の名が「業平橋」になったのかといえば、そばに業平天神社(東京都墨田区・現在は廃寺)が鎮座していたからで、なぜ業平天神社が祀られていたかというと、この地で在原業平が亡くなり、塚が存在したからではないかと考えられている(話がややこしくなっている)。



業平橋

あれ、在原業平って、墨田区で亡くなっていたのか? 知らなかったぞ。平安貴族が、東京見物していたのか?
 たしかに墨田区には在原業平の伝承地が多いが、どうやらこれらの伝説は、『伊勢物語』や『古今和歌集』が情報発信源だったようだ。たとえば『伊勢物語』九段には、「ある男」が「東下り」し、隅田川にやってきて、次の歌を残したと言っている。

名にし負はばいざこと問はむ都鳥
  わが思ふ人はありやなしやと

 たまたま見かけた鳥の名が都鳥ということを知って、「それなら、都の彼女が健在かどうか都鳥に聞いてみよう」というのだ。この歌は『古今和歌集』に在原業平の歌として載録され、隅田川のあたりで詠んだという詞書が添えられている。
 ちなみに『伊勢物語』と『古今和歌集』は、ほぼ同時代に作られている。『古今和歌集』の歌をもとに、『伊勢物語』が編まれた。
 また、『伊勢物語』に登場する主人公のモデルは、在原業平ではないかと疑われている。それはそうだろう。『伊勢物語』に登場する男が歌っている歌の多くは、『古今和歌集』の在原業平の歌だから当然のことだ。
『伊勢物語』は別名「在五が物語」なのだが、在原業平は五男坊だったために、「在五」と呼ばれていた。ちなみに、「在五忌」といえば、在原業平の命日の事を指している(こんなに教養にあふれた話でよかったのか?)。
『伊勢物語』を貫くテーマは「いろごのみ」で、在原業平らしき人物が伊勢の斎宮と関係を結んでしまうなど、当時のタブーを破るような内容も含まれている。
 また、一時は『伊勢物語』が『源氏物語』よりも重視されていた時代もあった。だから、在原業平はわれわれが知らないだけで(もちろん知っている人は知っているが)、昔の知識人たちの間では、超有名人だったのだ。「東下り」といえば、在原業平の都落ちを意味するほど、人口に膾炙した話だったのだ。そして在原業平は、後世の人びとに「エロくてかっこいい」と思われていたようだ。
 ただし問題は、『伊勢物語』の主人公が在原業平を名乗っていたわけでもなく、また実在の在原業平にそっくりそのままではなかったことだ。在原業平をモデルにして、創作されたのだろう。
 在原業平は東京見物をしていない。それにもかかわらず、「いや、たしかに墨田区にやってきたよ」と、いつのまにか、そういう伝説がまことしやかに語られるようになって、ついに塚(墓)まで用意されてしまったのである。

 いや、ちょっと待て。在原業平の時代背景を知らないと、何を話しても、大きな「?」が浮かぶだけだから、はじめから説明していこう。
 在原業平(八二五~八八〇)は平安時代初期の歌人で貴族だ。平城天皇の孫で六歌仙、三十六歌仙のひとりに選ばれている、いろいろな意味で「エライ人」だったのだ。父親は、阿保(あぼ)親王、母親は桓武天皇の娘だ。また平城天皇は平安京遷都を敢行した桓武天皇の子だから、在原業平の血統はずば抜けていた。ところが、やむを得ぬ事情で在原業平は臣籍降下(皇族が一般人になる)せざるを得なくなり、官人となるも、あまり評判は芳しくなかった。「才学がなく歌(和歌)ばかり造ってうつつを抜かしている」(『三代実録』)と、容赦ない。
 


在原業平(「三十六歌仙額」狩野探幽)


 意外に思われるかもしれないが、この時代、役人に求められていたのは、「漢文学」「漢詩文」の素養だったのだ(意外でもないか…)。その点、在原業平は斜に構えていたようだ。『三代実録』には、「イケメンで放縦(自由闊達といったところか)だった」とも記される。ちょい悪オヤジの元祖のような男なのだ。
 官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将に到達している。庶民からみれば、うらやましい階級だが、家柄から言って、特別出世したとはいえない。中途半端なんだな。やはり、和歌にかまけていたということなのだろうか。いやいや、在原業平の功績は、和歌の復興に尽力したこととされている。侮ってはなりませぬ。
 
 さて、在原業平にまつわる話、もっと奥がある。
『古今和歌集』は、惟喬(これたか)親王(文徳天皇の第一子)と在原業平が強く結ばれていたと記す。惟喬親王は有力な皇位継承候補だったが、藤原良房の横槍を受けて夢を絶たれ、失意の中出家すると、在原業平は深い雪をふみわけ訪れて、同情しているのだ。
『大鏡』裏書によれば、文徳天皇は惟喬親王を寵愛され、皇太子に立てるつもりだったという。ところが、周囲の圧力に屈し、断念したというのだ。
 惟喬親王に負けず劣らず、在原業平も不運な男であった。
 話は祖父の代の大事件に溯る。平城上皇は薬子(くすこ)の変(八一〇)に荷担し、弟の嵯峨天皇に敗れ、出家した。この時、在原業平の父親・阿保親王も連座して大宰権帥に任命され、左遷の憂き目に遭っている。ただしのちに許され、都にもどされた。とは言っても、子を臣籍降下させ、一家の皇位への野望を否定して恭順の意志を示したのだった。在原業平が臣籍降下した理由は、ここにある。
 ところが阿保親王は、承和の変(八四二)で、もう一度蹉跌を味わうことになる。
 ここに、平安初期の「高貴な出身なのにあまりおいしい思いができなかった」三人がそろった。阿保親王と在原業平の親子と惟喬親王だ。そして、彼らには共通点があった。キーワードは、「誰が母親だったのか」である。
 阿保親王の母は葛井藤子(ふじいのふじこ)で、葛井氏は渡来系豪族で、大阪の藤井寺市は葛井氏の拠点だった(しまった。駅名のテーマを一個失った。ばかばかばか。近鉄南大阪線藤井寺駅は、まさに、葛井氏の根城だったのだ…)。


大阪線藤井寺駅

 葛井藤子は平城天皇の寵愛を受け、阿保親王を産んだ。そして阿保親王と桓武天皇の娘・伊都内親王殿間に生まれたのが在原業平だった。また、惟喬親王の母親は紀氏の出だ。つまり、不運の三人に共通するのは、「母親が藤原氏ではなかった」ということである。
 ちょうどこのころ、藤原氏が「藤原腹」の皇子を即位させようと躍起になっていた。中心に立っていたのは藤原良房で、藤原氏を天皇家の外戚にすることで藤原氏が実権を掌握し、盤石な体制を築こうと考えていたのだ。
 連載中に述べていくが、「非藤原系(母親が藤原系でないということ)」の天皇は、必ずといってよいほど暴走し、独裁権力を握ろうとした。藤原氏に対抗するためで、藤原氏の箍がはずれた瞬間、暴れ回る天皇(上皇)が登場したのだ。それほど、天皇家は、藤原氏の呪縛に苦しめられていたのであり、逆に言えば、それだけ藤原氏の「天皇家支配」は、徹底されていたのである。
 平安時代初期以降、多くの皇族が臣籍降下し、源氏や平氏になっていくのは、「皇族の女人を後宮(江戸時代風にいえば大奥)から閉め出したい」という藤原氏の思惑からだろう。
 つまり、天皇と藤原の女人の間に生まれた子を即位させ、「藤原腹の天皇」を自在にコントロールして、「藤原氏だけが栄える世の中」を作り上げたのであり、在原業平は藤原氏が台頭するちょうどその時、高貴な血を引いていたからこそ、不運を味わった人物だったことになる。彼らは、藤原氏に睨まれていたがために、「権力や出世とは無縁」であることを、装わねば生きていけなかったのだ。
 だからこそ、在原業平の伝説はどこかはかなく、それでいて、ちょい悪でエロいのだろう。在原業平という人物、なかなか魅力的である。
 ああ、業平橋駅。復活しないだろうか。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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