第二十一話 奴国と伊都国の争い 最終回




お払い箱になった巨大ヤードは、梅田(大阪)だけではない。今回は、関東のヤードに注目しておこう。東横線とJR南武線の交差する武蔵小杉駅(神奈川県川崎市)の発展も、ヤードと深くかかわっている。
 最近、所用があって、武蔵小杉の駅前に降り立った。
「おいドンは浦島太郎でごわす」
 と、独り言をもらしてしまいましたよ。だってここ、かつての面影が、どこにもない。だれもが「ここはどこ? 私はだれ?」と、呟いてしまうに決まっている。まったく別の街になり果てた。こりゃおどろいた。何の変哲もない駅だったのに、横須賀線の駅がすぐ近くに設置され、東京駅まで一本で行けるようになってしまいましたよ。そしたら、高層マンションが雨後の筍のように…。何ですか、これ。
 その昔、新丸子(武蔵小杉のひとつ東京寄り)に住んでいたのは、家賃が安かったから。新丸子の駅から拙宅(モルタルアパート)に帰る途中、ラブホテルが二軒あって、その名も「アンジェラ」と「二番館」(実にどうでもよい話だが)。東海道新幹線に乗ると、多摩川渡ってすぐ右手に「二番館」の建物が見えるから、「このあたりにあいつは住んでいたのか」と、すぐ分かるはず。で、通勤の行き帰り、ラブホテルに出入りする二人組とすれ違うことがしょっちゅうで、思わず気まずい感じになったり、こちらの方が、見てはいけないと気を使ったりして、そういう場末に住んでいたわけで。となり駅の武蔵小杉も「ただ急行が止まって南武線に乗り換えられる労働者にやさしい街」という駅だった。
 ところが、ここ十数年で、とんでもないことになってしまいましたよ。そもそも、なんで、どこから横須賀線が湧いて出たのだ?
 横須賀線の川崎市内を走る部分は、東海道本線の混雑緩和のために、貨物線を旅客線に利用したもので、武蔵小杉のすぐ先の新川崎駅のあたりが、巨大なヤードだった(新鶴見操車場)。ところが、鉄道貨物の需要の減少により、お払い箱になった。そして、だれかが気付いたんだろうな。
「武蔵小杉駅の東側、二〇〇~三〇〇メートルに、横須賀線のレールが走ってっぺ。ここに駅作って陸橋でつないだら、便利じゃね?(なぜ茨城弁?)」
 このアイディアが、武蔵小杉の発展を導いたわけですわ。東京駅直通って…。そりゃマンション建つわ。



在りし日の新鶴見操車場。京浜工業地帯の発展に伴い、
1929年に開設され、東洋一の規模を誇った。



 武蔵野線の新三郷駅も、元々は、巨大なヤードだった。そもそも武蔵野線そのものが、横須賀線同様、旅客線ではなく、貨物専用路線として計画されていた。
 ちなみに、新三郷駅は「みさと団地」の最寄り駅なのだが、上下線のホームがヤードを挟んで三六〇メートルも離れていた(当時はギネスブック認定)。だから、「行きか帰りのどちらかに長い連絡橋」を渡らねばならなかった。吹きっさらしだから、嵐の時や極寒期には往生したらしい。ヤードがなくなった今は、上下線のホームは、団地側にくっついた(当然といえば当然。ヤードをまたいで駅を作ったことが、お役人的発想)。
 ちなみに、三郷のヤードは、貨物の入れ替えを全自動で行うという画期的なものだった(世界初)。じつは鉄道業務で殉職者が多いのは、貨車の連結作業なのだ。ゆるやかな高低差を利用して動力を使わずに貨車を動かし、乗っている(「脇にぶら下がった」が正しい?)作業員が貨車に備えられたフットブレーキを駆使してスピードを調整し、連結していく。地味な作業だが、職人技を要したのだ。ただし、作業員が滑落したり、連結器に挟まれるなど重大事故をたびたび起こしていた。そこで、コンピューター制御によって全自動にしてしまおうと、国鉄時代に研究は進み、完成していた。無人の貨車が、勝手にゆるいヤードの坂道を下り、風向や風力も計算し自動ブレーキで速度調整し、連結する…。見事完成して各国の鉄道関係者が見学に押しかけていたのだが、無用の長物となり果てた。じつにもったいない話で、今ではすべて取っ払われ、「ららぽーと」が建っている。



新三郷駅は開業当時、武蔵野操車場を挟んで上下線の
ホームが大きく離れた構造になっていた。(C)国土交通省



 話を古代史に移そう。話したかったのは「丸子」のことなのだ。
 東横線の新丸子駅は、神奈川県川崎市なのだが、多摩川の対岸、ガス橋を渡ったあたりにも、「丸子」の地名が残っている。東急多摩川線の下丸子駅一帯だ。今でこそ下丸子の住民は「東京都民」と胸を張っているが、江戸時代中期まで、多摩川はもっと北側を流れていて、「丸子」はすべて神奈川県側だったのだ。また、川が蛇行していたから「丸子」の地名ができたとする説もある。ただ、近くの多摩川の両岸に古墳群が存在するから、古代豪族丸子氏がのさばっていた可能性も疑っておきたい。
 丸子氏の祖を辿っていくと大伴氏に行き着く。もちろん他の系統もあるが、東京湾に近い多摩川流域の「丸子」という点がミソだと思う。房総半島の南側には丸子氏のたしかな痕跡があって、彼らは「水運」とかかわりが強いが、大伴氏も海人の末裔だ。新丸子の「丸子」も、大伴系が住んでいたからではあるまいか。
 大伴氏と海のつながりは、これまでほとんど注目されてこなかった。しかし、彼らは日本を代表する海の民の末裔だった。大伴氏と強く結ばれた一族に久米氏がいて、その祖の大久米命〈おおくめのみこと〉は、とある説話の中で「黥〈さ〉ける利目〈とめ〉」と表現されている。「入墨をした鋭い目」の意味だ。この表現、無視できない。
 入墨といえば、奴国の阿曇氏(ここで阿曇氏に話はつながるのだ)も同様に、入墨をしていたという記録が『日本書紀』にある(阿曇目)。「魏志倭人伝」には、倭国の海人が好んで海に潜り、魚や貝を捕り、入墨(黥面〈げいめん〉、文身)をして、大きな魚から身を守っていると言っているとある。この「入墨をする海人」は、南方の習俗で、なぜ北部九州の奴国の人びとが入墨をしていたかというと、彼らが縄文時代に、東南アジアのスンダランドから日本列島にやってきた海人の末裔だからと、筆者は考える。
 紀元前一二〇〇〇年ほど前から地球全体が温暖化し、海面が上昇した。そのため、スンダランドは海に沈み、住民たちは黒潮に乗って鹿児島県にたどり着いていたようなのだ。彼らは高度な文明を携えてやってきた。縄文草創期から早期にかけて出現した上野原遺跡(鹿児島県霧島市国分)にその痕跡がある。ところが今から七〇〇〇~六五〇〇年前、鬼界カルデラの大噴火が起き、半径百キロの地域が、一瞬で壊滅し、火山灰は東北地方まで達した。南部九州は、壊滅状態となり、海の民は各地に拡散し、海の文化を伝えていく役割を果たしたのだ。その中でも北部九州に根を張ったのが、阿曇氏や大伴氏の祖だと、筆者は考える。九州島北西部の海人たちの体には、縄文系の血が流れていたことが分かっている。弥生時代になると、朝鮮半島から大量の文物が流れ込み、多くの渡来人が日本列島を席巻したと信じられているが、実際には、縄文の海人が、朝鮮半島との交流をリードしていたのである。
 そして、問題はここからだ。
 奴国は伊都国との主導権争いに敗れ、日田に後退したのではないかと、前々回指摘しておいた。しかも彼らは、日田から追われてしまった可能性が高い。証拠は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡〈きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう〉だ。後漢では王族しか持つことが許されなかった貴重な宝物が、日田で見つかっていたのだ。しかも、古墳の石室に埋納されていたのではないところに、大きな意味が隠されている。地元の人間は、斜面が崩れて土の中から出てきた、と証言している。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、捨てられたのか、あるいは「追われる者」が、慌てて隠していったのか、どちらかだ。じつはこの様子、志賀島(福岡市)の金印にそっくりなのだ。おそらく奴国の誰かが、金印を土に埋め、その上に目印の石を置いて、逃げたのだろう。奴国の貴種たちは、ヤマトや伊都国に裏切られ、追われ、命からがら逃げ延びたにちがいない。
 ここで話は神功皇后とつながってくる。筆者は、神功皇后をヤマト建国時の女傑とみなす。そして、神功皇后はヤマトから北部九州に遣わされ、奴国と手を組み、玄界灘沿岸部の首長たちを組み伏せ、九州に君臨することに成功したと推理する(拙著『古代史謎解き紀行 九州編』新潮文庫)。しかしここで、歴史の歯車は狂い出す。ヤマトに攻められた神功皇后は、南部九州に逃れていったのだろう。有明海を南下し、九州の縄文系の海人に守られたのだと思う。その海人こそ、奴国の阿曇氏や、神武天皇に付き従った大伴氏であろう。
 神功皇后と末裔たちはヤマトを呪った。一方、ヤマトの為政者は、疫病の蔓延を「神功皇后たちの祟り」と信じ、南部九州から神功皇后の御子を招き寄せ、祟りを鎮める祭司王に立てたのだろう。
「丸子」と大伴はつながっていた…(偉大なる新丸子よ!!!)彼らは縄文系の海の民で、ヤマト建国の当事者だったわけである。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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