第四話  君知るや、奈良の京終駅(第二回)




 電車や汽車だけではない。乗り物は、なんでも好きだ。
 飛行機大好き。船も好き。自動車も好き。もちろん、自転車も。
 あ、いやいや、ちょっと待った。ここまで書いて、思い出しちまった。飛行機は好きだったのに、乗るのにためらうようになってしまった。それは、ブックマン社のクルーと、出雲に取材旅行に行ったときからあとだ。
 理由は簡単なこと。米子空港で帰りの飛行機に乗ろうとしたら、あの別嬪編集長が、
「私、飛行機事故で死ぬんですって」
「はあ?」
「占い師が、みんなそう言うの」
 飛行機に乗る直前に、そういうこと言うか? 「私と、心中して!!」といわれたような、そんな気分を味わったのは、人生で二回目だぞ(ただし、深く詮索するでない)。ああ、びっくりした。一時間半の恐怖体験であったぞ。
 無事、飛行機は羽田空港に着陸したから、今この原稿を書いているわけだが、離陸直前のあの発言は、反則でしょ。
 それでなくとも、こちらも一度は飛行機で「死ぬかも」「落ちるかも」と思った経験があるから(いずれその話もしましょう)、飛行機は好きでも、飛行機に乗るのは、身構えるようになってしまった。

 飛行機といえば、また思い出した。『墜落!の瞬間 ボイス・レコーダーが語る真実』(マルコム・マクファーソン著  山本光伸訳 ヴィレッジブックス)という本がある。これがまた、面白い。飛行機の墜落の瞬間のドラマをボイス・レコーダーの記録から再現し、事故の原因を解明するのだが、ほとんどが人為的、初歩的ミスが原因で、整備士が剥がすべきテープを剥がしていなかったとか、そういう些細な見落としが重大事故につながっている例が多いのだ。たとえばピトー管という対気速度を測る部分を塞いでしまっただけで、重大事故は起きる。
 あまり知られていないが、飛行機は「速度がわからなくなると、墜落する可能性が高まる」のだ。なぜなら、自分が止まっているのかどうかさえ、空の上ではわからなくなるからだ。そして、空港に着陸するときは、「失速するほどのろのろにならないと、飛行機は地上に降りられない(失速しないと着地できない)」のだ。しかも着陸する直前までは、逆に絶対失速してはいけないという矛盾……。スピードを落としすぎると、それこそドスンと墜落してしまう。だから、着陸直前の速度を知ることこそ「キモ」なのである……。
 そして、ジェットコースターにたとえるならば、もっともスピードが上がる落下してきた地点で、もっとも鈍足にならなければ、飛行機は飛行場に着陸できない。失速しない限り着地したと思っても、そのままどこかに飛んでいってしまうのである。
 そんなに微妙な乗り物だということを知っている人間に対して「私、飛行機で死ぬの」は、反則技だと思うのだ。「ここで死んでも、悔いは残るだろう……」と、たいした人生ではないが、ちょっとは考えるわけである。

 さて、前回は平城京の外京の南の果てが、「京終(きょうばて)」と呼ばれるようになったこと、そして、外京は天皇のおわします宮を睥睨(へいげい)する場所で、実権を握った藤原氏がここに拠点を構えたことを紹介した。
 藤原氏は天皇家を利用し、自家だけが栄える世の中の構築を目指したのだった……。とは言っても、平城京遷都を敢行した藤原不比等の父親・中臣(藤原)鎌足は、古代史の英雄だったと誰もが知っている。天皇家を蔑ろにした蘇我氏を滅亡に追い込んだヒーローだったはずだ。古代史でもっとも多くの人に好かれる正義の味方だ……。そう信じられているのだから、「身勝手で傲慢な藤原氏」を、にわかには信じられないかもしれない。でも、本当に中臣鎌足は「いい人」だったのだろうか。
「教科書にそう書いてあったし、先生が教えてくれた」
 これが、普通の言い分。優等生なら、
「正史『日本書紀』に書いてあるのだから、間違っていない」
 というのかも。「蘇我入鹿は悪い人」「中臣鎌足はいい人」という常識を覆すことは、そう簡単なことではない。
 ひねくれ者の吾輩は、こう考える。
「いやいや、待てよ。『日本書紀』編纂時の権力者は藤原不比等なのだから、『日本書紀』が中臣鎌足を礼讃したからといって、これを鵜呑みにしてよいのだろうか」
 と、まずは疑ってみる。中臣鎌足の蘇我入鹿殺しを正当化すれば、藤原氏は大きな顔が出来るというものだ。
『日本書紀』は、「みんなに好かれていた蘇我氏を、無理矢理大悪人に仕立て上げた」のではないかと思えてならない。たとえば、「明日香」が日本人は大好きだ。それは理屈ではなく、遺伝子にすり込まれているのではないかと思えてくる。われわれだけではない。古代人も明日香が大好きだったようなのだ。そして、明日香の時代は、蘇我氏全盛期なのだから、もし『日本書紀』の言うように、それが「暗黒時代」「恐怖の時代」だったのなら、なぜ誰もが「明日香がなつかしくて仕方ない」「明日香は古き良き時代」と考えたのだろう。(ちなみに、「飛鳥」は本来は明日香の枕詞。「飛ぶ鳥の明日香」)


猿沢池から興福寺五重塔をのぞむ


 猿沢池から、興福寺の五重塔は見上げる場所に位置するが、猿沢池の南側一帯、現在の「ならまち界隈」を平城京の人びとは、愛情を込めて「平城の明日香」と呼び習わしていた。

 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、『万葉集』に次の歌を残している。

故郷(ふるさと)の 飛鳥はあれど あをによし 平城(なら)の明日香を 見らくし好しも

 故郷の飛鳥もよいが、平城の明日香もいいものだ、というのだ。



元興寺の境内に佇む歌碑


 なぜ平城京の人びとは、猿沢の南側一帯を「明日香」と呼んでいたのだろう。ヒントは件の歌の題詞に、「元興寺(がんごうじ)の里を詠める歌一首」と書いてあることだ。元興寺は、もともと明日香の法興寺だったのだ。しかも平城京遷都に際し、旧都に居残った。「オイラは移んない」と、最後までヘソを曲げた寺であった。だからやむなく、朝廷は「ならまち界隈」に、寺を建立して元興寺と名付けたのだった(一部の建物を明日香から移築している)。
 明日香の法興寺は日本で最初に建立された本格的な仏教寺院で、だから「仏法が興った寺(法興寺)」で、平城京のお寺は「その昔、仏法が興った寺(元興寺)」と名付けられたわけである。その結果、「ならまち界隈」は「平城の明日香」と呼ばれ、親しまれるようになったという次第。




鬼の寺として知られる元興寺。鬼の正体は蘇我入鹿だったと伝えられている。なぜ入鹿は祟ったのか…

 法興寺は現在の飛鳥寺で、飛鳥大仏は建立当初からあの場所に居座り、頑として動かなかった。本堂は焼けて、雨ざらしになっても、大仏さん、つっぱねたんだね。顔も体も傷だらけになったが、よほど明日香が好きだったと見える。その法興寺を建立したのが、蘇我氏であった。


        
現在の飛鳥寺。日本で最初の法師寺(男性の僧のための寺)だったので「法興寺」と呼ばれた。


飛鳥寺の本堂に鎮座する飛鳥大仏。火災に遭い、傷だらけのお顔に。


 もし、『日本書紀』の言うとおり、蘇我氏が大悪人で、みんな蘇我氏が怖くって、びくびくしていたとしたら、平城京に移ったあと、元興寺一帯を「平城の明日香」と呼び、「ああ、明日香が好きだ。懐かしい」と思うものだろうか。われわれは『日本書紀』の一方的な勝者の歴史観に、欺されてきたのではあるまいか。
 じつは、今回お話ししようと思っていたのは、この話のつづきで、藤原氏のやり方に「あったまきた」と暴れ出した聖武天皇のことを語ろうと思っていたのだ。
 けれども、蘇我氏と藤原氏の関係がわからなければ、聖武天皇の真意も伝わらないため、脱線してしまった。だから、その話は次回にもう一度しようと思う。
 本日の結論。「いつの時代も、朝廷や政府、権威ある者が言ったことを鵜呑みにしてはいけない」でした。
           ほな。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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