第十一話「長野新幹線と古代史の妙なつながり」其ノ参




 その昔、バイク乗りの上司から仕事中、
「そんなに鉄道の旅って、面白い?」
と真顔で聞かれ、愕然としたことがある。
 列車の旅が楽しいと感じるのは全人類共通の認識と信じて疑わなかった吾輩は、まだ、青かったのだ。まさか、ぶらり列車旅を否定してかかる輩が現れるなど、想定外の出来事であった。
 答えに窮して、もごもごしてしまったら(だって、怖い上司だったし)、案の定、追い打ちをかけてきた。
「列車の旅に自由はないし、創造性もないよなあ…」
 ん、なんのこっちゃ。意味分からんし…。
 一車両にひとりかふたりしか乗っていなくって(旧国鉄時代の話をしております)、窓全開で、煙草ふかして、でれ~んと…。得も言われぬ解放感と恍惚。あれは、自由ではなかったのか? ただの怠惰なのか?
「青春18キップだから、乗れば乗るほどお得感が高まる~」
と、萌え萌えしていた(言葉の使い方が間違っていたら、ごめんあそばせ)あの瞬間は、なんだったのか…。
「自由ってなに? 創造性って、なに?」
 そういえば、あれから「自由」について、「創造性」について、真剣に考えてこなかった。あんなチャンスがあったのに、これこそ、精神の怠慢といわずして、何が怠慢であろうか…。いけないいけない。だからこんな、原稿ほったらかしの自堕落なおじさまになってしまったのね。編集長、ごめんなさい。
 いや、謝る必要などないのだ。列車の旅に自由や創造性がなくてもあっても、どっちだっていい。楽しいのだからいいじゃないか。ええじゃないか、ええじゃないか。
 
 鉄道旅の醍醐味のひとつは、車窓に映る景色をのんびり眺めて過ごせることだ。とは言っても、昭和六十年(一九八五)頃には、どこを旅しても街の姿は均一化してしまったし、農村地帯だって、絵に描いたような田園風景に巡り会うことは、稀だ。都心に住んでいると、飛行機や新幹線を乗り継がなければ、心を洗われるような景色に巡り会うことはできないだろう。
 ただし、関東近郊に限っていえば、穴場の路線がある。それが、中央本線なのである。
 全国あまたのローカル線に乗ってきたが、東京と松本を結ぶ中央本線(正式な路線は岡谷、辰野経由で名古屋に向かうが)は、侮ることができないお薦めの路線だ。窓の開かない特急などは興醒めで、できれば各停でのんびり行きたい。
 松本電鉄のバスの車掌をしていた頃は、たしか新宿と松本を結ぶ直通電車が走っていた。しかも会社の寮は線路の脇だったから、「新宿行き」の列車が通ると、みんなで手を振っていたことを思い出す。大阪から来ていたF君は、「そんなにええんか、東京」と、首をかしげていたが、やはり育った場所、住み慣れた場所は、なつかしいものだ。松本にぞっこん惚れ込んでいたけれども、東京にも郷愁を感じていた。
 あれは不思議な感覚だな。電車に乗れば、新宿にたどり着くという安堵感を、なぜか鉄道はもたらしてくれるものなのだ。昭和二十年、三十年代、東北から集団就職した「金の卵」たちが、上野駅に特別な感情を抱いているという話は、じつによく分かる。そこにいるだけで、故郷に帰ったような気分になれるのだ。もちろん、東京に戻ったあとは、「松本行き」の電車を見るたびに、懐かしさのあまり涙していたわけだが…。
 さて、いつの間にか松本方面の中央線の下りは立川か高尾が始発となり、本数もめっきり減った気がする。時刻表を開いたら、高尾発松本行きの始発は6時14分発で、松本着9時18分だ。青春18キップを買って、またチャレンジしたくなってきた。中央線の3時間は、あっという間だ。車窓に釘付けになること請け合い。「いつまでも乗っていたい」と感じさせる路線なのだ。
 中央線は高尾を出るとすぐ森の中を走り始める。関東圏を走るその他の路線(信越本線、上越本線、東北本線)は、なかなか山にたどり着けず、もどかしく感じる。住宅地を抜けるのに時間を要するし、関東平野ののっぺりとした景色に飽きてしまう。その点、中央線はすぐに「のどかな自然」に囲まれる。
 新緑の季節も紅葉の季節も、どちらも抜群によい。大月に抜けるまで低山の穏やかな起伏が続く。緑と渓谷、トンネルの連続は、都会の垢を落とすのにはもってこいだ。そしてしばらく甲府盆地を進むと、右手には遠く八ヶ岳が、左手に雄大な南アルプスが広がってくる。春、まだ山脈に雪が残る頃合いがお薦め。車窓の結露をふきながら、純白の南アルプスを愛でるのも一興。もちろん、富士山も拝むことができる。
 中央線は、枝分かれしていく路線がまたすばらしい。小淵沢から出る高原路線の小海線(八ヶ岳高原線)は、青春の鉄路。思い出いっぱい。八ヶ岳の絶景が目に焼き付いている。松本から長野に通じる篠ノ井線も、鉄道ファンなら垂涎の的。スイッチバックだけではない。善光寺平(長野盆地)を真下に見ながら、電車は下っていく。小生が乗ったのは夏の夕暮れ時で、「雷雨の善光寺平」をまるで雲に乗って眺めるかのようなシチュエーションに出くわしたものだ。感動の路線。



篠ノ井線姨捨〈おばすて〉駅名物・スイッチバック。ホームから見渡せる善光寺平も壮観。


 さらに、松本から糸魚川に抜ける大糸線も、忘れることができない。こちらはアルプスの絶景がイチ押し。さらに、長野県を抜けて姫川に沿って列車は走る。神々しいアルプスは姿を消すが、意外にも糸魚川の手前まで姫川のV字谷で、非日常的光景が続いていく。この姫川の急流を転がり落ちて日本海に沈んでいく宝石がある。それが、勾玉に加工されるヒスイ(硬玉ヒスイ)なのだ。



日本列島を東西に走るフォッサマグナに沿って流れる姫川。激しい造山運動によって生み出されたこの地の翡翠は、国内でも指折りの質を誇る。


 あ。長野県の古代史の話を続けようと思うけど、原稿が終わる…。話せるところまで、話しておこう。
 さて、諏訪大社の信仰に、縄文人の息吹を感じる。一帯は縄文人の利器・黒曜石の産地だった。黒曜石はたたき割り、少し加工するだけで、鋭い刃物に変身した。縄文時代は正式には新石器時代なのだ。旧石器とは打製石器、新石器は磨製石器を指している。黒曜石は打製石器だが、縄文時代に入っても(正確には古墳時代に入っても。どうでもよい話だが、小生が十代の頃は、霧ヶ峰を散策すると黒曜石が道端にゴロゴロしていた。最近では、ほとんど見かけない)需要があった。獲物を捕るための鏃〈やじり〉になったし、肉をさばくナイフとして重宝したのだ。さらに縄文人は石を磨いて(これが磨製石器)斧などを造り、森を切り開き、集落を形成し、土器を造った。縄文人は同時代の世界と比較しても、豊かさで最先端を走っていたのだった。その縄文時代の日本列島で、豊かだった場所の一つが諏訪であろう。その名残で、強烈な原始の信仰が継承されたのだ。だから、仏教さえなかなか浸透しなかった。
 もちろん、建御名方神〈たけみなかたのかみ〉という新たな神を迎えいれ、さらに洩矢神〈もりやのかみ〉は「物部守屋〈もののべのもりや〉」と習合していくが、それでも、三つ子の魂は決して消え去ることはなかった。だから、原始の信仰を色濃く残す諏訪上社と、あとからやってきた諏訪下社の関係は、いまだに険悪なのだ。
 ただし、信州の古代史には、もうひとつ見落とされていたことがある。それは、「安曇〈あずみ〉」のことだ。
 大糸線の穂高〈ほたか〉駅といえば、碌山〈ろくざん〉美術館や大王〈だいおう〉わさび農場、そして、安曇野の道祖神巡りでご存知の方も多いだろう。駅名も「安曇野」の方が、親しみがわきそうだが、なぜ「穂高」なのかと言えば、「穂高岳」があって、「穂高岳を祀る穂高神社」が鎮座するからだ



海の神を祀る穂高神社。毎年10月8日に「明神池お船祭り」を開催し、海陸交通の安全を祈願する。


 問題は、穂高神社を祀っていたのが安曇(阿曇)氏だったこと、彼らは北部九州からやってきた海の民だったことである。
 なぜ海の民が、信州の奥深くにまでやってきたのだろう。安曇氏は「ただの海の民」ではない。玄界灘を自在に渡り歩き、日本列島と朝鮮半島を股にかけて活躍した倭人を代表する海の民だった。弥生時代から邪馬台国の時代まで、彼らは日本を代表する勢力でもあったのだ。その彼らが、なぜ信州の山奥にやってきて定住したのだろう。続きは、次回。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

シェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事