第三話 君知るや、奈良の京終駅




 奈良市に「北京終」という地名がある。これを「ぺきんおわり」と読んだ観光客がいたとかいなかったとか……。
 いないと思う。作り話だと思う。よりによって「ぺきんおわり」って……。じゃあ、「南京終」があったら(実際にある)、「なんきんおわり」か? あほらし。誰が読んだって、北京終は「きたきょうばて」でしょ。ヤマトが大好きな人間なら、誰でも読めるに決まっている。あの桜井線の、奈良の次の駅の名を、間違えるはずがないのだ。
 いや、待てよ。小生もトンチンカンなことを奈良の人に聞いたことがあったっけ。高校一年の夏(今から二十年ぐらい前の話になると思う)、初めて訪れた山辺の道で迷い、地図を見ながら地元のお母さんに、「オオカミ神社って、どこですか?」と尋ねたことがある。お母さんは腕組みして、「う~ん、どこやろ、どこやろ」「知らんわあ、知らんわあ」とさんざん考えて、降参していた。
 お母さんはその晩、ぬか床をかき混ぜながら、「あ~、なんや、オオミワさんのことや!!」と大笑いしたのではなかろうか。素直な子なら、「大神」は「オオカミ」としか読まない。その「オオカミ神社」は、お母さんの家からすぐの場所にあった。
 そうそう、思い出した。

 大阪に暮らしていた時、友人の高橋政俊(『古代史謎解き紀行Ⅰ ヤマト編』の、「日吉館たくわん事件」のあいつだ! 初夏に新潮文庫で再登場!!)と京都に行った。三条京阪駅から、南禅寺方面に向かったのだが、たしかあの頃は地下鉄ではなく京阪電鉄の支線が、延びていたように思う。しかも自動券売機がなく(いつの時代だ!)、窓口で行先を告げて、切符を買わなければならなかった。したがって、あのガチガチの堅いキップに、改札でパチンとハサミを入れてもらうのだ。
「蹴上(けあげ)駅」(現在は廃駅)で降りたかったのだが、読み方がわからない。「けりあげ?」「ん、しゅうじょう?(蹴球の[しゅう]ぞな。蹴球とは、サッカーぞな。ラ式蹴球とは、ラグビーぞなもし)」と、教養と羞恥心が邪魔をして、なかなか駅員に駅名を告げられない。仕方ないので、「ひがしやまの次の駅、二枚」とオーダーしたね。駅員は「坂東の野蛮人め」という風に、蹴上駅までの切符を二枚差し出した。実に、気にくわないね。「運賃表にルビふれ~」と思ったさ。これは、関東の人間を嘲笑うための、「いけず」に違いないと直感したわなあ。とかく関西では、東の人間はいじめられるのが相場となっている。



当時の京阪電鉄京津線蹴上駅。1997年に地下鉄東西線が開業したことで廃駅に。


 あ、それでまた思い出した。
 古代史を生業にしている方なら、たいがい持っているとは思うのだが、それはそれはありがたい全七巻の『日本古代史人名辞典』(吉川弘文館)がある。何がありがたいって、古代史に登場する人物の事蹟は、この辞典を開けばすぐに知ることができる。正史に出てくる人物なら、何の活躍をしてなくとも「何々の文書の何年何月の条に、名前だけ出ています」という風に、知ることが可能だ。『日本書紀』『続日本紀』『日本霊異記』『扶桑略記』その他のおもな文献の中からその人物の記事すべてを抜き取り、羅列しているわけだ。これは重宝する。
 ところが、困ったことがある。全七巻ひとつも「ルビ」がふっていない。たとえば、「狭名来田蔣津之命」なんて人名が旧漢字で記されている。『日本書紀』の履中五年九月に登場するとも書かれているが、「読めない! ぜったいに読めない!!」。「さなきた?」そのあとが、読めない!! この徹底ぶりが、むしろ潔いのかもしれないが、吾輩のようなお馬鹿さんには、「もしルビがふってあったら、どれだけ便利だったか」と思うのである……。ちなみに「さなきた」は合っている。「さなきたこもつのみこと」が正解である。
 あ、いかん。原稿半分を「京終」と関係のないことに使っちまった……。
 奈良市の「京終」のつく町名は、「北京終」「南京終」だけではない。さらに「京終地方西側町」(なんでしょうかねえ、この地名)「京終地方東側町」(なんなんですか、この地名)がある。近鉄奈良駅からまっすぐ南に向かい、ならまち界隈を通り過ぎた、その先である。
 なぜここが「京の終わり」「京の果て」なのかというと、そのまんま、ひねりもなにもなく、京域(平城京)の南側の果てだったからだ。
 ただし、本当の平城京の南の果ては、さらに南側にある。京終の一帯は五条大路が東西に走り、ここを境に、南側に京域はつながっていなかった。ところがその南西側には、さらに九条大路まで京域が広がっている。奇妙な説明になってしまった。もっと簡単にいえば、普通の都城は左右対称の四角形をしているのに、なぜか平城京に限って、北東側に余分な出っ張りが用意されていたのだ。これを「外京」という。そして、その出っ張りの南端が京終だったのである。
 なぜ、平城京はいびつなのだろう。
 ここで注目すべきは、現代の奈良市の繁華街や官公庁、また観光地が、ほぼすっぽり外京に収まっていることだ。これはなぜかといえば、外京が平城京の中で一番不動産価値が高かったからなのだ。平城京全体を見下ろす高台からなだらかに下っていくその一帯が、外京である。



近鉄奈良線と平城京


 ここで、平城京について考えておきたい。なぜ奈良盆地の南部にあった都(藤原京)が捨てられ、新都が求められたのだろう。
 平城京遷都を仕掛けたのは、この時代にめきめきと頭角を現した藤原不比等であろう。何しろ、奈良盆地の南部は藤原氏の宿敵・蘇我系豪族の勢力圏だったから、どうにもやりにくかったのだろう。
 藤原不比等は目の上のたんこぶ、左大臣(現代風にいえば総理大臣)・石上(物部)麻呂を陰謀にはめ失脚させてしまった。平城京遷都に際し、一国の宰相が旧都の留守役を命じられ、捨てられたのだ。ヤマト建国から続いた名門豪族は、こうして没落していったのである。
 藤原不比等は用意周到だった。平城京は藤原氏繁栄の基礎を築くための都だったのだ。たとえば平城京でもっとも立地のよい外京の、その中でも一等地に陣取ったのは、藤原氏だった。近鉄奈良駅からお土産屋や飲食店が並ぶ東向通り(じつは、平城京の外京六坊大路の跡だ)を三条通の方に向かって行くと、途中で左手に急坂が見えるはずだ。ここを上ったところが興福寺の境内となる。もちろん藤原氏の氏寺で、さらにその奥に藤原氏の氏神を祀る春日大社が鎮座する。
 この高台にたたずめば、天皇のおわします平城宮は眼下に見渡せたわけで、「この世の本当の支配者が誰なのか」それを平城京の民に知らしめる装置が、外京だった。しかも、政敵が蜂起しても、高台の外京に逃げ込めばよかった。お寺は城の役目を担ってもいた。
 それだけではない。天皇が東を向いて日の出の太陽を拝んだ場合、その方角には藤原氏の祀る興福寺と春日大社が鎮座する。天皇は知らず知らずのうちに藤原氏に頭を下げ、藤原氏の祖神を拝んでいたことになる。ここに藤原氏の意地の悪さ、驕りが透けてみえる。
 藤原氏、何様のつもりなのか……。

 おっと、今日はこのぐらいにしておく。「京終」は平城京の外京の端っこであった。そしてこの外京に、藤原氏の野望が隠されていたのだ。ただ、このあたりの話、もうちょっとしておきたくなった。
 藤原氏の横暴に「あったまきた」と、暴れ出した無茶な天皇がいたのだ。その話を次回しようと思う。




「京終で、車買ったぞ」「京終駅の前だぞ」と、その男Nは、携帯で繰り返した。因縁めいたものだ。まさかNが京終で車を買うとは…。ちなみにこの男、三輪山山頂から酔っぱらって森の中に消えた、あの男だ。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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