第一話 歴史や風土を無視してくれた腹の立つ駅名の話




駅名と古代史のコラムを連載するという話になって、鉄道マニアの旧友に、「何か良いアイディアない?」と尋ねたら、「お前が駅名の話書くんなら、京終(きょうばて)駅しかないだろ」という。


「なるほど、さすがだ」と一度は感心したものの、なにゆえ京終駅なのか、という点に関していえば、JR桜井線の一つ目の駅で、古代史とかかわっているからだと思いきや、旧友は「あの話」を書けよというので、吾輩はすこぶる機嫌を損ねて、まったく違うことを書くことにした。「あの話」は、書かないよ。京終駅の名の由来は、次回にお預けさ。


「なんだい、あの話って」 と気になる読者も多かろうが、書かないものは、書かない。ヘソを曲げたのだから、書かない。しかし、そもそもなぜ、吾輩が、「駅名と古代史」のコラムを書かねばならぬのだ?ブックマン社の別嬪編集長(編註:心にもないこと、ありがとうございます)は、「だって、鉄道オタクでしょ」とおっしゃる。どうなんだろう……。鉄道オタクの中には、「乗り鉄」「撮り鉄」「車両鉄」「音鉄」「駅鉄」その他、マニアックな人びとが多いようだが、こちらはどちらかというと、ただ鉄道に乗って旅をするのが好きなのであって、マニアだとか、オタクだとかの意識は自分自身で持ち合わせていない。


ただ、高校時代いつも一緒にいた友人ふたりが、休みになると必ず蒸気機関車を追って方々を飛び回っていたこと、彼らにかなり影響を受けたことは事実だ。また、愚父が国鉄職員だったから、鉄道はいつも身近な存在だった。そしてなによりも、「あの頃の国鉄ローカル線」を知っているから、たしかに鉄道は好きなのだ。国鉄は、赤字を垂れ流していましたよ。 地方路線では、混んでもいないのに、十両編成の客車を機関車で引っ張るようなことを平然とやっていたのだから、借金が増えるわけです。


けれども鉄道ファンにとって、あれは極楽だった。乗客が一車両にひとりやふたりという光景も、珍しくなかった。窓を全開にしてふんぞりかえって煙草をふかしても、誰にも迷惑はかけない。あれは、古き良き時代の、贅沢な鉄道の旅だった。それが懐かしくてしょうがない。吾輩が好きなのは、あの時代の鉄道なのだ。


ただ、懐古主義に陥っても意味がない。新幹線が国土に張り巡らされ、在来線がピンチになったとしても、鉄道の旅には、まだまだ楽しさが残っているはずではないか。それを探ってみても、バチはあたるまい。この歳になって、ようやく見えてきた人生の楽しみ方もある。たとえば、歴史の現場を車窓から眺めることもできよう。歴史背景を思い巡らせながら、各駅停車の旅も楽しそうだ。うむうむ。ちょびちょびと、いきましょうかね、駅名と歴史の話。書かないと編集長にいじめられそうだし……(きゃ~、恐怖体験!! お化け屋敷なみですぞ)。

 
そこでまず初回は、「歴史や風土を無視してくれた腹の立つ駅名の話」にしてみた。日本には、歴史と伝統、風土を無視した駅名がいくつか存在する。特に新しい路線の駅名に、許しがたいものが多い。最たる路線は、昭和四十八年(一九七三)に開通した武蔵野線だ。その中でも、「浦和」にまつわる駅名が異常なことになっている。すべて並べてみよう。


「東浦和」「南浦和」「武蔵浦和」「西浦和」で、これに埼京線と京浜東北線の「中浦和」「浦和」「北浦和」が加わり、「七つの浦和駅」になってしまっている。なにこれ……。府中本町から武蔵野線に乗っていくと、「ここどこ?」「どの浦和で乗り換えるんだったっけ」って、ぜんぜん、わからないんですけど。東浦和の次の駅が東川口というのも、なんかこう、「なにやってんだよ」と叫びたくなってくる。その先には、「新三郷」と「三郷」と、二つの「三郷」がある。めちゃくちゃだね。


もちろん、事情はある程度理解しているつもりだ。新路線が敷かれた地域はその昔、(極論すれば)田圃と畑しかなかった。だから、その土地その土地の住所を駅名にしても、「誰も知らないだろう」と考え、また、「田畑を売るには、浦和の駅名をつけた方が高く値がつく」という皮算用があったにちがいない。しかしどのような小さな地名にも、歴史や名物、観光名所はあるものだ。たとえば、西浦和駅は「田島」という地名で、近くに「田島ヶ原サクラソウ」の自生地・田島ヶ原がある。「田島ヶ原サクラソウ」は、国の特別天然記念物に指定されている。


    田島ヶ原サクラソウ


ならば、駅名は西浦和ではなく、「田島ヶ原」でしょ。ちょっとおしゃれにするなら「サクラソウの里」でもよいわけですよ。ここまでは許す。「西浦和」を考えた人間は、磔獄門市中引き回しの刑だね。ほんとバカだねえ。今からでも、遅くないと思う……。駅名、変えたら? そしてもうひとつ、どうしても書かねばならぬことがある。ここから先が、本日の本題なのだ。


    東武伊勢崎線


東武伊勢崎線の終点・浅草駅のひとつ手前に業平橋(なりひらばし)駅があった。平安初期の歌人で『伊勢物語』を記したとされる在原業平の「業平」と縁のある駅名であった。ところが、平成二十四年(二〇一二)に東京スカイツリータウンの開業に伴い、駅名を「とうきょうスカイツリー」に改めてしまったのだ。

これは残念なことだった。「とうきょうスカイツリーは、業平橋駅で下車して下さい」のアナウンスなら粋だった。なぜ業平橋駅はだめだったのだろう。全国からスカイツリー見物にやってくる人も、「東京に在原業平の伝承地があるのか」と、興味を持たれたにちがいないのだ。

そもそも、東京の人間からして、なぜここに在原業平にまつわる地名が残されたのか、ほとんど知らないだろう。それよりもなによりも、在原業平はちょい悪のイケメンだったこと、この人物を巡る歴史背景がすこぶる面白いことも知られていない。だから一層のこと、「業平橋駅」がなくなってしまったことは、悔やまれるのだ。ただし、在原業平のあっと驚くお話は次回にお預けして、今日はこのくらいに……。


                     ▲業平橋駅お別れ


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

シェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事