第六話  君知るや、奈良の京終駅(完)




 今回は、聖武天皇と関西本線の笠置〈かさぎ〉駅の話をしたいのだが、その前にちょっぴり寄り道をしておこう。平和憲法と戦争の話だ。
 さて、私の年代は「しらけ世代」なのだそうだ。自分たちはそう思っていないが、そうレッテルを貼られた。
 まあたしかに、生まれたときは戦争が終わって十四年が経っていたし、全学連やら全共闘やらの学生運動も、青年になったころ、すでに下火になっていた。近くに米軍の野戦病院があって、駅のホームで、獣のような目つきの米兵に出くわすこともたびたびあったが、ベトナム戦争も、いつの間にか終わっていた。
 かのノーベル賞作家の小説ではないが、「遅れてきた青年」が、われらであった。われわれはゲバ棒を持つこともなかったし、安田講堂事件や浅間山荘事件は傍観した。しかも茶の間のテレビで…!
 政治的な発言をするわけでもなく、だからこそ、闘争に明け暮れていた世代からすれば、われわれは「しらけ」て見えたのだろう。
 けれども子供のころ、池袋の地下通路で傷痍〈しょうい〉軍人が物乞いをしていたし、広島の被爆者の一家はすぐ近くに住んでいた。遊び場は旧陸軍の兵器敞〈へいきしょう〉跡で、スクラップ待ちの戦車をジャングルジム代わりにした。戦後の匂いはそこかしこに残っていて、われわれなりに「戦争」に関しては、「思索し続けていた」つもりだった。
 愚父は海軍航空隊に志願した。愚母は東京生まれの東京育ち、しかも戦争中は丸の内に通勤していたから、夫婦そろって悲惨な戦争体験をしたわけで、夕飯時は必ずといっていいほど、戦争中の苦労話を聞かされた。
 われわれにとって「戦争を知らない子供たち」のニュアンスは、他の世代とは異なると思う。「戦争を知らないことの負い目」「遅れてきたことの腹立たしさ」が、複雑に心のなかで錯綜していたのだ。「戦争を知らないアマちゃん」、「権力と闘ったことがない坊や」がわれわれだった。その一方で、「二度と戦争を起こしてはいけない」と、心底思っていた。そして今も、その願いは変わらない。
 それに、今思えば、われわれはけっして遅れてきたわけではなかった。われわれの世代が活躍する時代が、ようやくやってきたと、実感している。日本の平和を守るための責任がわれわれにはある。そして、時代の先を見据えた提案を掲げていく義務がある。

 若いころは、「平和憲法を守らなければ、日本は軍国主義にもどる」と真剣に考えていた。だが、見聞を広めていくに従い、「ひょっとすると、睡眠術にかけられていたのではないか」と思い始めた。そもそも、アメリカはなぜ、日本に平和憲法を「下賜」したのだろう。多くの犠牲を払って勝利を手にしたアメリカが、なぜ平和憲法をもたらしたのか、この謎が頭から離れなくなった。「タダほど高いモノはない」というが、なぜ日本は、自国の安全保障を米国に委ねたのだろう。なぜ、戦勝国・米国は、「日本の平和は守って見せましょう」と請け負ったのか。本当にアメリカは、善意で日本に平和憲法を根づかせたのだろうか…。ここには、何かカラクリが隠されていたのではあるまいか…。アメリカは日本を叩きつぶしたあと、何を日本に期待したのだろう。
 答えは簡単だった。世界地図を見てみればよい。アメリカにとって、日本列島は東アジア進出のための足がかりとして最適の場所だった。これは、ペリーの時代からまったく変わってはいない。米国が欲したのは、日本の土地(基地)だ。そして、米軍が日本に駐留する最大の大義名分が、「日本を守る」ことだった。そのために日本を丸裸にする必要があったのである。
 すなわち、平和憲法と米軍基地はセットになっていたのだ。日本が平和でいられたのは、平和憲法があったからではない。米軍と核の傘に守られていたからなのだ。この事実を忘れてはならないし、日本人を除いた世界中の人びとは、アメリカの目論見を客観的に「理解している」はずなのだ。
 この前提がはっきりしたところで、平和憲法の意味と効力を考え直してみる必要がある。「平和憲法を失えば、日本は戦争に巻き込まれる」と唱える人は多い。しかしそれは、本当だろうか。海の外から見れば、「アメリカの虎の威を借りてぬくぬくと平和に暮らしてきた日本人」の「甘え」を象徴するのが平和憲法ではなかろうか。

 百歩譲って、平和憲法にそれなりの効果があると仮定してみよう。けれどもそれだけで、果たして日本は安全なのだろうか。
 問題は三つある。
 ひとつは、民族や国家は、しばしば発狂し、戦争を起こすということだ。近代では、日本人が戦争に熱中し、戦勝に狂喜乱舞した。国民の熱狂に便乗し、報道合戦を繰り広げた新聞社の責任も大きい。明治維新以来、日本は戦争に負けなかった。そして、新聞は戦争が起きるたびに発行部数を増やした。戦争で儲けたのはマスコミであり、マスコミが国民を煽り、軍部を増長させ、関東軍の暴走を許し、日本を奈落の底に突き落とした。
 この構図にそっくりなことが、今中国で起きている。中国共産党軍も、もはや政府のコントロールが効かなくなってしまったように見受けられる。戦前、戦中の関東軍と、よく似てきた。
 第二に、いくら平和主義を唱えて自衛に徹していても、侵略を免れるわけではない。日本を侵略する手っ取り早い方法は、「平和主義」の崇高なイメージを破壊することだ。中国が韓国と手を組んで日本のイメージを貶めている最大の目的は、戦火を交えたとき、世界中の同情が日本に集まることを阻止するためだろう。
 第三に、オバマ大統領の日和見主義が、混沌を生み出していることだ。アメリカは世界の警察官の役割を放棄しようとしている。これは、パンドラの箱を開けたようなものだ。しかも国連は機能不全に陥っているのだから、世界中で大混乱が始まることは間違いない。
 そこで提案だ。もし本気で平和憲法を守り、日本の平和を維持したいのならば、「新しい世界秩序」を構築しなければならない。日本一国だけで平和を叫んでいても、意味がなくなったことを自覚すべきだ。
 平和憲法をどうしても守りたいというのなら、世界に向けて、気長に「新しい秩序の構築を!」と呼びかけ、具体的なプランを提示する必要があろう。憲法問題は、国内だけの問題では片付かないのに、すべて議論は内向きなのだ。ここに、一国平和主義の限界がある…。
 極論すれば、世界中が一斉に平和憲法を採択し、「国際警察軍」を確立し、「国際司法組織」を機能させないと、世界の秩序は保たれないのだ。もちろんその場合、日本人も「国際警察軍」に参加して汗と血を流す必要があるのだが…。
 まだ言いたいことは山のようにあるのだが、これくらいにしておこう。聖武天皇と笠置駅の話に移る。



 東大寺といえば大仏殿だけでなく、その東側の高台の二月堂や三月堂もよく知られている。三月堂の近くには、四月堂も存在する。
 二月堂はお水取り(修二会〈しゅにえ〉)の舞台となる場所。三月堂には、国宝・不空羂索〈ふくうけんじゃく〉観音菩薩立像が祀られ、また建物自体も、東大寺創建当時から残る数少ない遺構である。



東大寺二月堂のお水取り(修二会)。毎年三月(旧暦二月)に行われる儀式で、世の罪を懺悔し、五穀豊穣・除災招福を祈る。


 ならば、東大寺の「正月堂」はご存知だろうか。じつは、京都にある。
「京都? そんな離れた所に?」
 と思われるだろう。これが、意外に近いのだ。JR奈良駅から名古屋方面行きの関西本線に乗って「平城山〈ならやま〉」「木津」「加茂」と駅が続き、その次が「笠置駅」だ。ホームから木津川を見下ろすことのできる景勝の地で、春には桜のトンネルができあがる。奈良と京都の境に位置する。笠置町の土地の半分は木津川の南側にあり、この一帯の文化圏は奈良に入るが、なぜか行政上、京都府に組み込まれている。南側の峠を越えれば、柳生〈やぎゅう〉の里だ。



関西本線・笠置駅。春には笠置駅を包み込むように桜が咲き誇り、この付近一帯は「日本のさくら名所百選」にも選ばれている。


 笠置駅から南東の方角に目をやると、深い森に覆われた円錐形の小高い山が見える。それが笠置山で、元弘〈げんこう〉元年(一三三一)に後醍醐〈ごだいご〉天皇がここで討幕(鎌倉幕府)の火ぶたを切り、籠城したことで有名だが(元弘の乱)、笠置寺の境内に正月堂が存在する。笠置寺〈かさぎでら〉は東大寺の末寺なのだ。しかも、二月堂で毎年行なわれているお水取りは、ここで始まった。



笠置寺の境内にある正月堂。七五二年に東大寺・実忠和尚によって建立され、いま東大寺二月堂で行われているお水取りは、最初はここで行われた。


 昔の人の戦略眼は、現代人を凌駕している。笠置一帯は、木津川、月ヶ瀬〈つきがせ〉街道、伊賀街道が交差する地で、流通、防衛上の要衝であった。木津川の上流からは伐り出された大木が流れ下り、平城京造営の資材は、笠置と奈良阪を経由して運ばれた。その「交差点を見下ろす高台」が笠置山であった。
 ではなぜ、ここに東大寺の正月堂が建っていたのだろう。
 何から説明すればよいだろう。まず、「笠置」の地名のおこりを話そう。
『今昔物語集』には、次の説話が載る。天智天皇の子・大友皇子〈おおとものみこ〉が狩りの最中、乗っていた馬が笠置山の断崖で身動きがとれなくなり、山の神に「もし助けてくださるなら、岩に弥勒仏〈みろくぶつ〉を刻みましょう」と誓願した。助かった大友皇子は、場所を忘れないように、「笠を置いて」いったという。のちに大友皇子は、笠置山を再訪し、弥勒仏を刻もうとしたが、絶壁に難儀し、天人が助けて刻んでくれた。これが「笠置」の地名説話と、笠置寺の弥勒断崖仏の由来だ。ただし、笠置寺そのものは、天武天皇の命令で建立されたらしい。大友皇子は壬申の乱(六七二)で叔父の大海人皇子〈おおあまのみこ〉(のちの天武天皇)に敗れているから、敵味方の伝承が、笠置に残されていたことになる。ひょっとすると、大友皇子の供養のために笠置寺は祀られたのだろうか。



笠置寺の本尊仏で、かつては15mの石面に弥勒如来が彫刻されていた。元弘の乱など三度の火災で焼けてしまい、いまは巨大な光背を残すのみ。


 のちに、聖武天皇や東大寺と関わりの深い良弁〈ろうべん〉や実忠〈じっちゅう〉が、この地で修行を積んだと伝わる。笠置山には多くの巨岩や洞窟があって、こののち山岳信仰の聖地となっていく。
 ただし、ここで注意をしておかなければならないのは、笠置山が信仰の地というだけではなく、戦略的に大きな意味を持っていたことだ。
 大仏(盧舎那仏〈るしゃなぶつ〉)は、最初、紫香楽〈しがらき〉(三重県甲賀市信楽町〈しがらきちょう〉)で造営が始まった。聖武天皇はなぞの関東行幸を敢行し、平城京を飛び出した。恭仁〈くに〉京(京都府木津川市)や紫香楽に拠点を移そうとしていたのだ。しかし、山火事が相次ぎ、基皇子〈もといのみこ〉の死が重なり、結局、平城京に戻ってくる。基皇子の急死は聖武天皇と対立していた藤原仲麻呂(のちの恵美押勝〈えみのおしかつ〉)の密室殺人だった可能性が高い(通説もほぼ認めている)のだが、また、相次いだ山火事も、藤原仲麻呂の工作だったのではないかと疑われている。おそらくその通りだろう。
 聖武天皇は藤原不比等の孫で、母(宮子)と皇后(光明子〈こうみょうし〉)はどちらも藤原不比等の娘と、「藤原氏のために生まれてきた天皇」なのだが、ある時期を境に、なぜか「反藤原の天皇」に化け、藤原氏と闘うことになってしまったのだ。摩訶不思議な事態といわざるを得ないが、その理由を簡単に説明すると、以下のようになる。すなわち、光明子が藤原不比等ではなく、県犬養三千代の娘であることを強烈に意識していたのだ。その県犬養三千代〈あがたいぬかいのみちよ〉は藤原不比等を憎んでいた可能性が高く、光明子は「藤原の女」を演じながら、聖武天皇を反藤原派の天皇に仕立て上げたと思われる。
 聖武天皇にはひ弱なイメージがつきまとうが、これは大きな誤解で、しっかりとした戦略眼があった。なぞの関東行幸にも意味がある。すでに連載中述べてきたように、平城京の一等地の高台を藤原氏が陣取り、これに抗うには、平城京を捨てる必要があったのだろう。その後の度重なる藤原仲麻呂の抵抗に辟易し平城京に戻ってきた聖武天皇だったが、藤原氏が陣取る高台の、さらに一歩高い場所に、東大寺を建立している。これは、藤原氏に張り合う意志を捨てていないことを示そうとしたからだろう。
 そう考えると、笠置山の意味も分かってくる。後醍醐天皇も挙兵の地に選んだ笠置山を、聖武天皇がきっちりおさえていたことは間違いない。これも、戦略という視点を組み込まなければ、その理由ははっきりとわからないはずだ。聖武天皇は、木津川の流通をおさえ、藤原氏に睨みをきかせる砦として、笠置山を重視したのだろう。どのような争いごとも、経済で負ければ、あとが続かない。

 このように、聖武天皇は本気になって「巨大な権力者=藤原氏」と闘っていたのだ。しかも、それを背後から支えて(あるいは操って)いたのが、「藤原の女=光明子」だったところに、話の妙がある。
 藤原氏は平城京遷都に際し、外京を造営し、藤原氏一族だけが栄える世界の構築を急いだ。しかし、「藤原の子=聖武天皇」が反旗を翻し、目論見はいったん潰え去った。四回にわたって「外京のはずれ=京終」をお話ししてきたのは、すなわち、「藤原氏と聖武天皇の闘争劇」の見物席として京終が一等地だったことをご理解していただくためだったのだ。「京終」にこだわったことに、他意はない。編集長は、なにやら勘ぐってニヤニヤしていらっしゃるが…。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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