第十話「長野新幹線と古代史の妙なつながり」其ノ弐




 前回の最後に「次回は、善光寺と長野新幹線と古代史がなぜかつながってくるというお話をしよう。乞うご期待」と書いたが、今になってみると、「長野新幹線と古代史のつながりって、何のことだ」と思う。もしかすると、前回の原稿を書き終えたときは、「誰もが腰を抜かす」ようなアイディアがひらめいていたのかもしれないが、忘れてしまったのではあるまいか。
 ひょっとしてこういうことだろうか。長野県千曲〈ちくま〉市の森将軍塚古墳(科野〈しなの〉の里歴史公園)に登れば、眼下に善光寺平が見渡せ(川中島の合戦の行われた場所でもある)、新幹線の線路も見えるぞ、という、子供だましのような話がしたかっただけなのだ。おそらくそういう話だ。何しろ、前回の原稿を書いてから、すでに二ヶ月が経過している。何を書きたかったのかさえも、忘れてしまったではないか。



4世紀後半に造られた前方後円墳を復元したもの。善光寺平には「将軍塚」と呼ばれる古墳が11基ある。


 なぜ、こんなに、間が開いてしまったのだろう…。そうだ。そうだ。悪いのは編集長だ。そうに決まっている。督促の誠実さが足りないね。怒っているのかもしれないが、こちらにぜ~んぜん気持ちが伝わってこないのだよ。脅迫状を送るとか、怒鳴り込んでくるとか、そういうドラマチックな展開もなかった。こまるなあ。ほったらかしは…。
 あ、いや、思い出した。そうだ。わかったぞ。長野新幹線が金沢までのびて、そのルートが出雲神・建御名方神〈たけみなかたのかみ〉の諏訪への逃亡ルートと重なって見える、という結論を導き出そうとしていたのだ(あ、先に言っちゃった)。
 そうなのだ。古代史の謎を解く最大の鍵を握っているといっても過言ではない「建御名方神」を、掘り下げてみたい。ただし今回は、ちょっと寄り道をして、信州の一風変わったな祭りをまず紹介しておこう。

 長野駅からJR飯山線に乗って約一時間、戸狩野沢温泉駅で降りよう。スキー場としても有名な野沢温泉の最寄り駅だ。野沢菜の「野沢」とは、まさにここのこと。蕎麦も抜群にうまい。夏でもうまいのは、水が良いからだろう。
 小正月(一月十五日)に奇妙な祭りが執り行われる。それが道祖神祭りで、祀られる神は、八衢比古神〈やちまたひこのかみ〉と八衢比売神〈やちまたひめのかみ〉(彼らが道祖神)だ。日本三大火祭りの一つである。
 問題は祭りのクライマックスで、厄年の男どもが「道祖神歌」を歌いながらやってくる。前日からこしらえた高さ二十メートルを超える社殿に、陣取るためだ。二十五歳の厄年の男は、社殿の真下にそろい、四十二歳の厄年の男どもは、社殿の上部に登る。すると炎の燃えさかる松明を持った村民が社殿に火をかけようと押し寄せてくる。二十五歳の厄年の男たちは、死にものぐるいで防戦し、社殿を守る。ほぼ、ケンカ状態だ。社殿の上の四十二歳の厄年男どもも、「やれるものならやってみやがれ」とでも言いたげに挑発する。
 攻防戦が長々と続き、最後の最後に、社殿に火がかけられて紅蓮の炎に包まれる…。もちろん、厄年の男たちは、避難するが…。



国の無形民俗文化財にも指定されている奇才・道祖神祭り。男達による松明の攻防戦は、毎年ケガ人が出るほどの白熱ぶり。


 道祖神歌も、支離滅裂な歌詞だ。途中で、こんな言葉も飛び出す。
「添わせておくれ 縁を結ぶの神ならば 良い娘に良い衣装着せて 袖の下から乳握る」
 なんだろうねえ、この祭り。不条理だよなあ。ばかばかしいからこそ、祭りの中の祭りといえる気もする。日本人の間で有名になるよりも早く、「ガイジン」たちが、かけつるようになったらしい。わかるよ。このおかしな祭り。一度は観てみたい。

 長野県内のもうひとつ、よそにはない祭りを紹介しておこう。それが、諏訪大社の祭りだ。
 諏訪大社の主祭神は、建御名方神だ。出雲の国譲りに最後まで抵抗したが敗れ、結局諏訪の地(科野国の州羽海〈すわのうみ〉)に落ち延び、「ここから一歩も外に出ません。葦原中国〈あしはらのなかつくに〉は天神の御子の仰せのままに、献上しましょう」と天神に命乞いをして、許された。
 これは『古事記』に出てくる話で、『日本書紀』には建御名方神は登場しない。また『古事記』の大国主神の系譜に名が挙がってこない。このため、建御名方神の説話は、のちの時代に付け足されたのではないかとする考えもある。そうでなくとも、建御名方神は実在しなかったというのが、普通の考えだ。
 その一方で、出雲から日本海を通り、信濃川(千曲川)を遡り諏訪に至る道中に、建御名方神は多くの伝説を残している。長野市の善光寺は、もともとは建御名方神の拠点(砦)だったといい、天神に追われ、さらに内陸に移ったという。だから善光寺の脇に、健御名方富命彦神別〈とみのみことひこかみわけ〉神社が鎮座する。
 建御名方神はすんなり諏訪に入れたわけではない。土着の洩矢神〈もりやのかみ〉が抵抗したので、しばらく手前の小野に留まったという。現在小野神社(長野県塩尻市北小野)とその隣に矢彦神社(長野県伊那郡辰野町小野)が鎮座する。
 この「洩矢神」がくせ者で、このあといかに大きな存在だったのかがわかってくる。結論を先に言ってしまえば、縄文時代から続く諏訪の地の「ドン」であり、諏訪の神の影響力は、計り知れないものがあった。たとえば鎌倉時代に至るまで、諏訪の盆地は仏教寺院が建立されていない。新来の信仰をはねのける力を洩矢神はもっていたのだ。

 諏訪大社と言えば、日本三大奇祭のひとつで六年に一度行われる御柱祭〈おんばしらさい〉が有名だ。よく「御柱祭は七年に一度」と記されているが、これは「数え年」で計算した場合だ。
 ただ、御柱祭よりももっとおもしろい話が、諏訪大社には眠っている。たとえば、四月十五日(旧三月酉の日)から始まる御頭祭〈おんとうさい〉(酉の祭、大御立座〈おおみたてまし〉神事)が、太古の信仰を今に伝えている。
 御頭祭は上社でもっとも重要な年中祭礼だ。諏訪の神の心霊を、神使〈かんづかい〉に託し、各地の霊地に向かわせる。神使は、元旦に占いによって定められた十五歳の童男で、馬に乗って出発する。
 神使は「湛〈たたえ〉」に出向き、神を祀る。「湛」は、「水を湛える」の意味があり、また諏訪大社周辺には七種類の樹木の名が冠せられた「タタエ」が存在する。巨樹に神が舞い降りてくるという信仰形態だろう。その降りてくる神が、御左口〈みしゃぐち〉神であり、建御名方神の子だという。



御左口神を祀る御頭御社宮司社。


 ただしこの御左口神、実際には、建御名方神よりも古い、諏訪土着の神と考えられている(つまりこれが洩矢神)。というのも、御左口神祭祀の中心に立つのは、諏訪上社の大祝・神氏ではなく、建御名方神の諏訪入りを阻もうとした洩矢神の末裔の守矢氏だからだ。守矢氏の神長官屋敷(現在は茅野市の神長官守屋資料館)の裏手に、御佐口神の総社・御頭御社宮司社が祀られている。神社といっても、みすぼらしい祠があるだけで、あとは四隅に小さな御柱が立つだけだ。原始の信仰そのものである。
 ところで、御頭祭の中で諏訪大社前宮の十間廊(間口三間、奥行き十間の建物)に、鹿の頭七十五個をに並べられ、神前に供えていた。肉食を忌み嫌っていた時代でも、御頭祭では肉を食べた。諏訪という土地は、縄文時代から続く狩猟民の風習を守り続けた場所なのだ。付近で黒曜石がとれたこと、山に囲まれ、容易によその人間が諏訪に侵入することはできなかったのだろう。仏教を拒み続けた理由も、これではっきりとする。われわれが日本人固有の信仰と信じている「神道」よりもさらに古い信仰が、諏訪には残されていたのである。



御頭祭で神前に供えられる鹿の頭(現在は剥製)。鹿肉のブロック(冷凍)も捧げられるそう。


 ところで、御頭祭では、さらに不思議なことが起きていたようだ。むかしは「神使」が消えたという。どうやら密殺されたようだ。人身御供であり、太古の日本で、同様の風習があったことは、記録に残っている。
 たとえば「魏志倭人伝」には、倭人が遠距離を船で移動するとき、「持衰〈じさい〉」なるものを同乗させ、肉を与えず、女性を遠ざけ、航海が無事に終われば褒美を与えるが、時化〈しけ〉に遭えば殺そうとしたとある。『古事記』の場合、女性が人身御供になったとある。ヤマトタケルは走水〈はしりみず〉の沖合で時化に遭い、弟橘比売命が入水すると、嵐は静まったという。
 ただ、「だから古代人は野蛮なのだ」と非難するのはお門違いというものだ。説話の中で弟橘比売命〈おとうとたちばなひめのみこと〉が自らの意志で海に飛び込んだように、これは信仰の違いなのだ。
 もっと話したいことはあるのだが、続きは次回に。

関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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