第十九話 奴国と伊都国の争い 其ノ弐




考えてみれば、連載の初めに桜井線の京終〈きょうばて〉駅を紹介して以来、奈良県内を走る鉄道の駅名には、ノータッチだった。
 そこで今回は、本題に入る前に、奈良の駅名についてあれこれ探っておこう。
 まず、奈良県そのものが歴史の宝庫だから、駅名も「聞いたことがある」ものが多い。大和路線(旧関西本線)なら、「法隆寺駅」がある。法隆寺まで歩いて二十分はかかるような場所にもかかわらず、堂々と「法隆寺」を名乗っているのはご愛嬌。開業が明治二十三年(一八九〇)で、当時は一面の田園風景(分かりやすくいうと田んぼ)だったから、駅から法隆寺が見えたにちがいない。ちなみに、奈良から大和路線に乗って大和郡山を過ぎ、法隆寺に近づくと、はるか彼方に法隆寺の五重塔が車窓から見える。高い建物がなかった時代、五重塔は超高層ビルだったはずだ。
 ちなみに大和路線は、大阪駅から乗ってくるのも楽しい。大阪府と奈良県の境は、ちょっとした大和川の渓谷になっていて、清涼感を味わうことができる。
 もうひとつ、奈良鉄道旅お薦めの路線は、奈良駅から奈良盆地の東のへりを天理、桜井と南下し、西に曲がって高田につながる桜井線である(最近では、こちらも「万葉まほろば線」って呼ぶんだって)。

 桜井線の旅は、奈良好きにはたまらない。山辺の道を歩き通し、桜井駅から奈良駅に向かって、歩いてきた道をふり返りながら、車窓にかじりつくのが、醍醐味だ。太古の奈良盆地は広大な湿地帯で、山辺の道や桜井線の一帯が、住みやすい一等地だった。だから、多くの古代遺跡や初期の大型前方後円墳が集中しているのだ。
 あまたある桜井線の駅の中でも有名なのは三輪駅だが、ここは大神〈おおみわ〉神社のお膝元で、「オオミワ」の「ミワ」が、駅名の由来。
 われわれが想像する普通の駅前とは、様相が異なる。大神神社に向かうには、改札を出てまっすぐ西に向かい、少しして右(北側)に折れていくが、そこはすでに、多くの参拝客で賑わう門前町だ。最近、時間が無いために、大神神社はクルマで向かってしまうが、この雑多な風情は、なつかしい。



JR桜井線の三輪駅。三輪駅を出て西に少し歩いて振り返ると三輪山が見える。


三輪山そのものが御神体という、原初の神祀りを今に伝える大神神社。日本最古の神社である。


 また、地元の人間なら「三輪駅から詣でるのは大神神社だけではない」ことは、よくご存知のはず。例の三輪駅から出て右に折れた場所を反対の左に向かえば、「三輪のえべっさん」(三輪坐恵比須神社)が見えてくる。祭神は八重事代主命〈やえことしろぬしのみこと〉、八尋熊鰐命〈やひろわにのみこと〉、加夜奈流美命〈かやなるみのみこと〉で、全国の恵比須神社が「商売の神」であるように、ここも商人に支えられてきた神社だ。日本最古の市場・海柘榴市〈つばいち〉の守護神であった。延長四年(九二六)に泊瀬川(初瀬川)〈はつせがわ〉が溢れ、市場は北側に移動し、これに伴い、恵比須神社も今の場所に遷し祀られた。また、神社周辺に花街ができあがっていった。ただし残念ながら、面影はほとんど残っていない。
 ちなみに、三輪山麓のこの一帯はヤマト建国黎明期の国の中心(纒向〈まきむく〉遺跡)だった。海柘榴市が縄文時代から継承された「東との接点」だったことが重視されたのだろう。ヤマト建国のきっかけを作ったのは「東」で、東海や近江勢力が「西側から攻められてもびくともしないヤマトの地」に拠点を作り、慌てた吉備や出雲が、国造りに参画したのだろうと、吾輩は睨んでいる。
 そうそう。纒向遺跡といえば、桜井線三輪駅のひとつ北側に、「巻向〈まきむく〉駅」がある。まさに、纒向遺跡のほぼど真ん中に、駅舎が建っている。駅ができた頃は、この下に巨大な遺跡が眠っていることなど、思いもよらなかっただろう。
 今から三十数年前、バックパック担いで山辺の道を歩き、巻向駅のベンチで一晩過ごしたことがある。朝、通勤客が寝袋の中を覗き込んでいったっけ。寝たふりをしていて、列車が行って人の気配がなくなると、むくっと起き上がったのを覚えている。当時すでに無人駅だったが、今はどうなのだろう。懐かしいな。あの頃はまったく知識がなかったが、ヤマト黎明期の王の館のすぐ脇で、寝ていたのだ。じつに贅沢な体験ではないか。




纒向川扇状地に広がる纏向遺跡。卑弥呼の墓ではないかといわれる箸墓古墳など、多くの古墳や遺跡がある。


JR桜井線巻向駅。とても小さな無人の駅。


 桜井線の三輪駅の次は桜井駅で、ここから線路は西に向かう。そして、「香具山駅」(橿原市出垣内町)や「畝傍〈うねび〉駅」(橿原市八木町)が登場する。どちらも大和三山(畝傍山、耳成山〈みみなしやま〉、天香具山〈あまのかぐやま〉)にちなむ。
 香久山駅はむしろ耳成山に近いのに、なぜ香具山が選ばれたのだろう。ひょっとすると、持統天皇の万葉歌「春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香具山」が有名だからだろうか。北側に並行して近鉄大阪線が走っていて、そちらに「耳成駅」(橿原市石原田町)がある。
 どちらが先に、レールが敷かれたかというと、桜井線は明治二十六年(一八九三)に一部開通し、香久山駅は大正二年(一九一三)年に新駅として登場している。
 一方の近鉄線の耳成駅が登場したのは、昭和四年(一九二九)のこと。鉄道開業と同時に駅ができた。だから、先に生まれたのは香久山駅だったことがわかる。
 天香具山は「ヤマトの物実(象徴)」と考えられていて、神武天皇もこの山の土を遣って政敵を倒す呪術を執り行っている。そんな歴史があるから、やはり近くの耳成山ではなく、少し離れた天香具山の名を選んだのだろう。
 平城京遷都(七一〇)以前のヤマトの中心は、盆地東南部から南部にかけての一帯で、まさに大和三山は、古代人のあこがれの山だった。低山だが、なぜか懐かしい山々なのである。その三つの山の名が、すべて駅名に取り入れられているのは、当然といえば当然のことだろう。

 さて、ここからが今回の本題。
 前回まで、北部九州沿岸部の奴国と伊都国のライバル関係について語ってきたが、今回は、あえてヤマトに飛んできたのだ。これには、大きな理由があってのことだ。
『日本書紀』や『古事記』に、神武天皇は橿原に宮を建て、陵は畝傍山の北東、あるいは北にあると記されている。幕末期に神武天皇陵が比定され、その後整備された。ここに本当に神武が眠っているのか、そもそも神武天皇は実在したのか、議論は尽きないが、興味深いのは、一帯は蘇我氏の地盤ということ、さらに、神武天皇の出自がじつにユニークなことなのである。
 蘇我氏の全盛期は六世紀から七世紀前半にかけてだから、神武天皇が実在したとしても、「神武天皇は蘇我氏の地盤を選んだ」のではなく、神武天皇の拠点に六世紀ごろ蘇我氏が進出したと言うべきなのかもしれないが、それ以前、奈良盆地の南部一帯から紀ノ川にかけて、葛城氏や紀氏ら「武内宿禰の末裔」(要するに蘇我系豪族)が勢力圏を構築していたことも間違いない。
 なぜ、王家発祥の地の周辺に、蘇我系豪族が集まっていたのだろう。

 もうひとつ大きな謎は、神武天皇の母と祖母のことなのだ。
『日本書紀』は、神武天皇の母は玉依姫〈たまよりひめ〉で、祖母は豊玉姫〈とよたまひめ〉といっている。海幸山幸神話で、海神の元に誘われた神武の祖父・山幸彦(彦火火出見尊〈ひこほほでみのみこと〉)が、海神の娘・豊玉姫と結ばれ、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊〈ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと〉が生まれ、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊が豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれ、生まれたのが神武だったのだ。すなわち、ヤマト黎明期の王家は、「海の女神のお腹で育った」わけである。この設定、いったい何を意味しているのだろう。
 ここで、前回までの話が大きな意味を持ってくる。海神を祀っていたのは奴国の阿曇氏で、だから奴国と強く結ばれていた対馬に、「山幸彦と豊玉姫はここで結ばれた」と伝わっている。
 また、山幸彦を海神の元に誘ったのが塩土老翁〈しおつつのおじ〉で、神武をヤマトに誘ったのもこの人物(神)だったことは無視できない。塩土老翁は、蘇我氏と強くつながっていたから、興味が尽きないのだ。
 これまでほとんど注目されてこなかった海の女神の系譜だが、ここに古代史の大きな秘密が隠されているように思えてならないのだ。
 この話の続きは、次回。


関 裕二 (せきゆうじ)


1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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