第十二話「長野新幹線と古代史の妙なつながり」其ノ四




 松本発の新宿行き直通電車がいつの間にかなくなり、高尾行きになってしまったこと、本数が減ったという話は、前回した。それからしばらくして、なぜ本数が減ってしまったのか、その意味が分かった。あの当時、中央道(高速道路)は、まだ勝沼(山梨県勝沼市)までしか通っていなかったのだ。国道二十号だって、片側一車線で狭く、峠道ばかりだった。当然、物流は鉄道がメインだったのだ。だから高速が松本まで通じて、電車の本数も減ったわけだ。納得。
 そうだ。思い出してきた。
 松本電鉄のバスの車掌のバイトに向かったのは、直前に十万円で買った中古の「ホンダライフ」だった。360ccのエンジンで、峠越えするたびに水温が上昇し、いつ壊れるかと心配でならなかった。
 一度、晩秋の那須高原で、氷点下の山道を下っているときは、逆に水温が下がりすぎて、「走っているのにエンスト」して下っているから、そのままブスブス音をたてながら、自動的に「押しがけ」状態になって、ウサギ跳びをしているように走っていた記憶がある。ポンコツほど愛着がわくもので、人生初のあの車がいつまでも忘れられない。
 話はさらに脱線する。
 十万円で買ったホンダライフはポンコツで、ラジオが取り外されていた。それはそれでご愛嬌なのだが、一度、車の中にいながら「本当の漆黒の闇」を垣間見てしまったことがある。
 忘れもしない、国道六号(水戸街道)上りの北小金あたりの交差点を右折したときのことだ。非力なエンジンゆえ、右折時に対向車がまだ十分遠くにいても、気合いを入れてエンジンを吹かして、飛び出さねばならぬ。ちょうどそのとき、左後方で「ちゃり~ん」と…。そう、お茶碗が割れるような、「ちゃり~ん」と音がしたのだ。「ん? 何が起きた?」と思って左のサイドミラーを覗き込むと、そこに広がっていたのは、次元の壁を越えた闇であった…。車から見て左後方の世界が、まさに漆黒の闇なのだ!! これは恐怖だった。パニックになった。
「車に乗っていて、異次元の世界に紛れ込む話をどこかで聞いたことがある」
 頭をよぎったのは「宇宙人に連れ去られるのか~!!」という恐怖だ。しかし冷静沈着な頭脳は、すぐさま否定した。車を止めてみて、意味が分かった。サイドミラーの鏡(ガラスの部分だけ)が落ちたのである。360ccの加速が、馬鹿にできないということなのか、あるいは本当に、小生はあのとき以来、異次元の世界に迷い込んでしまったままなのではあるまいか。いやいや、鏡と車を支えていた接着剤が劣化したという推理も、捨ててはなるまい。
 今となっては、その真相は分からない。それこそ闇の中だ。じつに恐ろしいことだ。

 そうそう、国道二十号(甲州街道)の話だ。
 あの当時、国道二十号はいくつもの峠を越えて、うねうね道を進んだ。信号が少ないから、東京から松本に抜けるといっても、想像するほど時間はかからなかった(ように思う)。ドライブしていて飽きない道で、山道のカーブごとに、小さな茶店があって、つねに車が数台止まっていた。深夜に車を止めると、トラックの運ちゃんがこちらのナンバーを覗き込み、「どこいくの」と声をかけてきたりもした。タイヤのパンクは日常茶飯事だったから、修理する車をみんなで手助けしたり、それはそれは、人情に溢れていた。あれもこれも、懐かしい思い出だ。ローカル線の鉄路だけが、長閑だったわけではない。車の旅ものんびりしていたよ。あの頃は。
 ま、懐かしんでばかりいてもしょうがない。若者のために明るい未来を作り上げる責務が、われわれの年代には課せられているように思うのだ。

 さて、話はころりと変わる。もともとこのコラムは「駅名」の話だったのに、いつの間にか、著者の好き勝手を書いているような気がしてきた。だからたまには、駅名の話もしておかなければならない。今回は「和田〈わだ〉駅」の話だ。日本海側に、二つの「和田駅」がある。奥羽本線の「和田駅」と、小浜〈おばま〉線の「若狭和田〈わかさわだ〉駅」だ。それぞれ住所は、秋田県秋田市河辺和田〈かべわだ〉と福井県大飯郡高浜町和田で、「和田」にあるから「和田駅」となった。福井県の和田駅に「若狭」がついたのは、「国鉄(現JR)の駅」に「和田駅」が二つあっては混乱するためだ。



小浜線の若狭和田駅。周囲を海と山に囲まれた若狭路の町。


 ちなみに、日本の中に二つの同じ「市」がある。広島県府中〈ふちゅう〉市と東京都府中市で、どちらも国府の所在地だったために、「府中」を名乗る(備後国と武蔵国)。同じ名を名乗っていけないという法はない。かつては「若松市」が二つあったし(福岡県と福島県。現在は福島県若松市が会津若松市に変更になった)、伊達〈だて〉市なら福島県と北海道に現存する。さらに余談ながら、「府中町(安芸府中。広島県)」もある。広島県に二つの「府中」があるのは、国がいくつも分かれていたためだ。
 さらに余談ながら、東京の中央線の国分寺駅は、奈良時代に聖武〈しょうむ〉天皇が全国の国府の近くに国分寺〈こくぶんじ〉と国分尼寺〈こくぶんにじ〉を建てるように命じたこと、実際に武蔵の国府の近くに寺院が建立された(東京都国分寺市)ことから、「国分寺」の地名が残った。
 現在この国分寺は遺跡になっていて、昭和四十三年(一九六八)に起きた三億円事件に際し、七重塔跡付近に現金輸送車が乗り捨てられていたことでも知られる。



武蔵国分寺跡。全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、国指定史跡になっている。


 また、府中市の国府に近い。府中から国分寺に向かって、ケヤキ並木(馬場大門〈ばばだいもん〉のケヤキ並木。天然記念物)が整備されているが、これは、源頼義と義家の親子が、前九年の役〈ぜんくねんのえき〉(一〇五六~一〇六二)を戦い、凱旋したおりに苗木を寄進したものと考えられている。
 ただし、武蔵国府の街路樹説、徳川家康の寄進説もあって、定かなことは分かっていない。ただ、街路樹の脇に、源義家像が建てられているから、地元では「源義家寄進説」を重視していることが分かる。



馬場大門のケヤキ並木。約150本の立派なケヤキが立ち並び、大國魂神社の参道にもなっている。


 余談が止まらない。国分寺駅で思い出した。ハイソでお高くとまっている「国立〈くにたち〉駅(中央線)」は、国分寺駅と立川駅の中間にあるから「国立駅」であるぞよ。ははははは(なんの笑いかは、意味不明)。

 閑話休題、「和田」の話だ。
 一説に、「和田」という地名は、海の民と関係しているらしい。「ワダツミ」の「ワダ」だという。本当かねえ…。本当らしい。
 福井県の「和田」は、外海から遮断された小浜湾の奥の奥、大島半島が防波堤になった天然の良港に位置していて、現在でも近くに「青戸マリーナ」がある。まさに「若大将」(古いか)が登場しそうな場所である。秋田県の「和田」は、日本海から少し川を溯ったところにあって、こちらは海に近いわけではない。ただ、長野県の和田峠の「和田」も、「ワダツミの和田」と考えられている。ここを中仙道が通っているように、交通の要衝で、古代の海の民はこういうポイントポイントを押さえていたようなのだ。和田峠の周辺からは、黒曜石が産出されていて、縄文時代から、ここに人びとは集まってきていた。だから、諏訪大社もまったく無関係ではない。
 ここで話は、安曇野〈あづみの〉の穂高神社を祀る海の民・安曇氏に戻っていくのだ。
 古代の海の民が、信州の山奥に進出していたのはなぜだろう。おそらく彼らは、まっすぐ伸びる巨木を求めたのだろう。丸木舟にするためだ。だから、川を溯り、森林地帯に迷い込んだにちがいない。さらに、海の民は舟を馬に引かせて川を溯る。だから、馬の産地である長野県は無視できなかっただろうし、「手ぶら」でやってきて美味しい思いをしようとは思わなかっただろう。当然、お土産に何かを内陸部の人間に渡さなければならない。海の民は商人であると同時に、新たな文物、技術を広める役目を負ったのだ。
 そう考えると、彼らが内陸部の交通の要衝に拠点を築いたのは、むしろ当然のことだったことが分かる。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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