第十三話「ひとやすみ~心のオアシスはやっぱりローカル線だよね」




 死ぬまでに、のんびりゆっくり、ローカル線の旅をもう一度楽しんでみたい。
「そんなこと言う歳じゃないでしょ」
 とありきたりな反応が返ってきそうだ。
 問題は二つある。
 まず第一に、出版不況の煽りを受けて、儲かりもしないのに、仕事だけはやたら忙しい。このまま突っ走らなければ、国民年金だけでは喰っていけそうにない。赤い靴はかされ、鞭打たれ、走りつづけて死ぬほかないようだ。のんびり旅など、している余裕はないのだよ。
 第二に、ローカル線がいつまで存続するか、分かったものではない。
 これまで乗った路線のなかで、「どうしてももう一度乗ってみたい」と思う路線に限って、存続の危機に立たされている。
 たとえば、島根県の「宍道〈しんじ〉駅」と広島県庄原市の「備後落合〈びんごおちあい〉駅」を結ぶ木次〈きすき〉線だ。
 お薦めは、備後落合で駅弁を買って、出雲を目指すこと。今はどうか知らないが、昔はとてもローカルなお弁当を楽しめた。鰻弁当が三百円ぐらいで、「何でこんなに安いの」とびっくりしたものだ。ちなみに、関西では鰻は「マムシ」といい、たしか「マムシ弁当」と書いてあったと思う。食べてみたら、エライ歯ごたえのある肉質で、関西風の「焼く蒲焼き」にしても、「本物のマムシ」なのではないかと、今でも疑っている。何しろ、備後落合がど田舎で、こんな駅で弁当を売っているのかと思えるような場所なのだ。
 木次線が好きでたまらないのは、豊かな緑の中をひた走るからだ。いまどき、「どこまでも続く緑」「森の中を延々と疾走する列車」は、そうめったやたらにあるものではない。窓を全開にして、風に吹かれる気持ち良さといったら…。




1997年に無人駅となった備後落合駅。1両編成の列車がのんびりやってくる秘境駅。


 しかも、一帯は奥出雲と呼ばれる地域で、スサノヲや奇稲田姫〈くしいなだひめ〉にまつわる神話や伝説に溢れているのだ。出雲観光なら、出雲大社や八重垣神社、松江城、玉造温泉が定番かもしれない。しかし、奥出雲をはずされては困るのだ。出雲の古代史の謎を探る上でも、この地域が重要な意味を持っている。
 山陰線で京都から出雲に入るというのも、今となっては贅沢な旅だが、木次線で出雲入りというのも洒落ている。
 ただ問題は、本数が極端に少なくなってしまったことなのだ。備後落合発の上り列車が、平日三本って、どういうこと? 14:44発に至っては、第二木曜は運休で、「代行輸送あり」と時刻表に書いてあるぞ。第二木曜日、いったい何があるんだ? それに、一本乗り遅れたらとんでもないことになるぞ。
 もう一か所、どうしても死ぬまでに乗っておきたいのは、岩手県の盛岡と宮古を結ぶ山田線だ。山田線に乗って、龍泉洞〈りゅうせんどう〉を再訪してみたい。
 山田線も、深い緑の中を突き進む。そして、龍泉洞の地底湖の輝き。神秘的で透明な青。一生に一度は、必ず訪ねてみたい神秘的な場所なのだ。
 とは言っても、やはり、山田線の本数が少ないのだ。盛岡発の宮古行きの終電が19:06発というのも、悲しいものがある。
 本数が減れば、不便だからバスや自家用車に逃げて客足は途絶える。悪循環だ。
 ま、嘆いていても仕方ない。本数は少なくとも、いつかまた山田線に乗る。決めた。乗る。どうかそれまで、存続してくれ~。



日本の三大鍾乳洞のひとつで国の天然記念物・龍泉洞。湧水を湛えた地底湖は透明度が高く神秘的。


 今年(平成27年)、北陸新幹線が開業するというので、十数年ぶりに時刻表を買ってみた。路線図を見ていて、廃線になった場所が多いので驚いた。さらに、「そういえば、米沢も山形も新幹線で行けるんだ…」と、新たな感動…。そして、北陸新幹線の停車駅を追っていくうちに、「糸魚川駅も、新幹線止まるんだ!!」と、びっくりしてしまった。まあ、大糸線とつながる大事なポイントだから、止まってもおかしくはない…。
 けれどもこれから、発展するのだろうか…と、やや心配になった。新幹線が止まるようになったのだから、おそらく現地は盛り上がっているのだろうが…。
 縄文時代の糸魚川市は、ヒスイ(硬玉翡翠)の産地として栄えた。勾玉といえば、ヒスイである。
 かつて日本のヒスイは、海外から持ち込まれたと信じられていた。ところが、日本は有数の硬玉ヒスイの産地だったことが分かってきたのだ(ちなみに中国では硬玉ヒスイは採れない)。しかも日本各地でヒスイは採れるが、縄文以来、なぜか糸魚川市周辺のヒスイが珍重されてきたことも分かってきた。
 太古の日本人にとって、ヒスイは貴重な宝石(神宝)だった。古墳時代に至っても、ヒスイの勾玉は墓に副葬され続けた。また、朝鮮半島に輸出されもした。
 七世紀に至ると、全盛期の蘇我氏が、ヒスイ加工を独占した。そして、その反動なのだろうか、蘇我氏が没落してしまうと、ヒスイは姿を消してしまうのだ。法興寺(飛鳥寺)の心礎に埋納されていたものと、東大寺三月堂の不空羂索〈ふくうけんじゅく〉観音菩薩立像の冠に飾られたヒスイの勾玉が、最後のヒスイの輝きとなったのである。
 一般に、蘇我氏は渡来系ではないかと疑われているが、ヒスイに対する憧憬の念を見ても、彼らが日本列島にアイデンティティを感じていたと考えざるを得ないのだ。他の拙著の中で述べてきたように、蘇我氏を追いやった藤原氏こそ、百済系の渡来人であり、だからこそ、「日本を象徴する神宝=ヒスイ」を忌み嫌い、捨て去ったのだろう。
 ところで、糸魚川駅から大糸線に乗ると、ひとつ目が「姫川駅」だ。大糸線はフォッサマグナの「切れ目」に沿って南北を走るため、途中まで想像以上に切り立った地形の隙間を通っていく。そして、すぐ脇を流れているのが姫川で、駅名ももちろん、川の名に由来する。
 姫川の支流・小滝川を上流に向かえば、ヒスイの原産地にたどり着く。明星山〈みょうじょうさん〉からヒスイの原石が滑落してくるのだ。
 ヒスイは「海の神」「水の神」と強く結ばれているのだが、それはなぜかと言えば、昔の人はヒスイが海の底から現れると信じていたからだ。海が荒れると、その翌日、浜辺にヒスイの原石が打ち上げらたのだという。小滝川、姫川を流れ下ってきたあと嵐の海に揉まれ、浜辺に打ち上げられるのだ。だからヒスイは、海神がもたらす神宝と信じられたのである。



明星山の大岩壁が小滝川に落ち込む小滝川ヒスイ峡。
ここから流れ出たヒスイは姫川を下り、海岸に流れつく。



 海幸山幸〈うみさちやまさち〉神話も、ヒスイにまつわる説話なのだ。山幸彦(彦火火出見尊〈ひこほほでみのみこと〉。神武天皇の祖父)は海神の娘・豊玉姫〈とよたまひめ〉と結ばれ、三年間海神の宮で過ごした。しかし故郷が恋しくなり豊玉姫に告げると、潮の満ち引きを自在に操ることのできる潮満瓊〈しおみちのたま〉と潮涸瓊〈しおひのたま〉を授け、「妊娠している」こと、「海の荒れた日に浜辺に行き、子を生む」と告げて、山幸彦の願いを聞き入れた。
「海の荒れた日」「塩の満ち引きを自在に操る玉」という説話は、「嵐のあと浜辺に打ち上げられるヒスイ」「海神の授けるヒスイ」そのものではないか。
 第十五代応神天皇の母・神功〈じんぐう〉皇后も、海神から潮満瓊と潮涸瓊をもらい受け、新羅征討を成功させている。神功皇后の忠臣は武内宿禰で、蘇我氏の祖とされる人物だ。蘇我氏がヒスイを重視した理由も、深い歴史に裏付けられていたのかもしれない。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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