第七話  鹿児島の「カゴ」は「籠」なのか?




 JR鹿児島本線の終点、知ってる?
 つい最近まで、「西鹿児島駅」といっていた。鹿児島駅の西側の駅だから、西鹿児島だ。で、なぜ終点が「鹿児島駅」ではなく「西鹿児島駅」なのかというと、もともとは鹿児島駅の方が鹿児島の中心でお城や官庁もこちらが近かったのだが、戦後南西側に市街地が広がり、「西鹿児島駅」の周辺が発展してしまったのだ。だから、長距離列車もみな、「西鹿児島行き」になってしまったのだ。



ちょっと切ない鹿児島駅

 街の盛衰は不思議なものだ。官庁街のまわりは発展しない。日本の場合、寺社仏閣を中心に、街が広がっていく。お色気たっぷりの花街や飲み屋、さらには商売人も、神社仏閣に集まってくる。古い時代の「商売」は、神社の境内で執り行われていたことがひとつの原因かもしれない。なぜ神社かというと、商売は神が介在することで成り立っていたからだ。昔の人はお金で商品を買うという「はしたないこと」はしないで、神社にお賽銭を奉納して、品をいただいた。神に仲介してもらい、商売は成り立っていたのだ。
 不思議なことではない。古代の税も、神が関わっていた。収穫した稲の一部は都に届け、集められた稲は、天皇が神に奉納し、翌年の豊作を祈願した。神の精を稲に吹き込み、再分配(集められた稲の一部を配る。残りは、天皇や国家の取り分となる)して、翌年の種籾にした。これが税の原理であった。
 海賊も、神を大いに利用した。海を通航する船に、「海の神様にお賽銭を献上しないと、大変な目に遭いますよ」と、親切に教えてあげたのだ。しかも、「代わりに、賽銭箱にお金入れておきましょう」と、便利屋まで買って出たのだ。それだけではない。「それはありがたい」と、お金を払った船には、「この船は神に賽銭払ってま~す」とお墨付きを与える旗まで貸してあげたのだ。そして、もしお賽銭を払わなかった場合、神様に代わって、ボコボコにしてしまうのだから、こんなに人様のためになる仕事はなかったのだ。
 また、街道筋(陸路)には山賊が待ち構え、私設の関が設けられ、お金を巻き上げていた。いや、「巻き上げていた」などと、人聞きの悪いことを言ってはいけません。彼らもまた、「山の神にもお賽銭、払いましょうね」と、海賊の論理とまったく同じ理屈で生きていたわけだ。どこもかしこも、「神」の存在なくして、成り立つ商売はなかった。
 さらに「花街」が神社の周辺に集まっていたのも、しっかりとした理由がある。
 神聖な「巫女さん」は「遊び女」でもあった。「神様と遊ぶ」のが巫女の役目で、何をして遊ぶのかというと、「大人の遊び」なのだった。すなわち、巫女さんは神とHをする役割を担っていたのだ。
 なぜそんなことをするかというと、神様は恐ろしいことを平気するからだ。日本人にとって「神」とは、嵐や雷、疫病の蔓延、地震、火山の爆発といった、大自然の猛威そのものだった。それをなんとかしてなだめすかす必要があったのだ。
 もっとも効果的だったのが、美女をあてがうことだったわけ。出雲のスサノヲが人身御供に出されてしまう乙女を八岐大蛇〈やまたのおろち〉から救った話は、誰もが知っていよう。あれは、神に巫女を差し出すところを、スサノヲが割って入った物語なのだ。




八岐大蛇を退治するスサノヲ


 乙女(巫女)は神様とHして、神様のご機嫌を取り、世の平穏を手に入れた。そして、神からパワーをいただき、それをミウチの男どもに分け与えたのだ。なんとけなげなことだろう。
 天皇も、ミウチの女性を伊勢の斎宮に送り、伊勢の神の妻にして(これが斎王)、神→斎王と下ってきたパワーを、頂戴したのだ。これが、神まつりの基本であった。また斎王は、役目を全うしても、原則として、結婚はしなかった。「神の妻」の役割は、大きかったのだ。
 ところで、伊勢の神といえば女神(天照大神〈あまてらすおおみかみ〉)ではないかと気づかれた方も少なくあるまい。けれどもその常識、そろそろ疑ってかからないといけません。
 実は八世紀の『日本書紀』が、「太陽神・天照大神は女性ですから」と、神の性別を変えてしまったようなのだ。その証拠に、祇園祭の山車に祀られる天照大神の口元には、ふさふさのヒゲがたくわえられている。伊勢斎王のもとに、夜な夜な蛇が通って来て、それが伊勢の神の正体で、斎王の寝床にはウロコが落ちていたと、まことしやかに語られてきたのだ。『日本書紀』の証言とは裏腹に、「天照大神は男神」という暗黙の了解があったとしか考えられない。
 ならばなぜ、男神を女神に入れ替える必要があったのかといえば、この話は別の場所で、改めてしようと思う。
 問題は、建前上、天皇家の最高位の神が女神ということになって、巫女の役目が徐々に減っていってしまったことだ。その代わり、大嘗祭〈だいじょうさい〉のクライマックスで、密かに天皇は天の羽衣を着て(女装して)、神と交わる擬似行為を行っていたようなのだが……。
 一方、零落した巫女たちは「遊び女」となった。これを目当てに参拝してきた男どもは、神社のまわり(花街)で「神のおこぼれ」を頂戴したというわけ。

 なんの話だっけ。そうだ、西鹿児島駅の話だ。
 西鹿児島駅周辺の発展は、「鹿児島駅のまわりが狭かった(海と高台に挟まれている)」ということも、一因だったろう。けれども、官庁街から離れた場所が商業地区として発展することの方が、自然なのだった。京都最大の繁華街が、八坂神社の門前町・祇園や四条通の周辺であることからも、その意味が分かっていただけるだろう。
 ところで、ふと思ったのは、「そういえば、九州新幹線の終着駅も西鹿児島のままなのか」ということだ。ひょっとして、かつての「西鹿児島駅」がいつの間にか「鹿児島駅」になっていて、もとの「鹿児島駅」は「東鹿児島駅」になっているのではないかと勘ぐった。ところが調べてみると、西鹿児島駅は、新幹線開業とともに、「鹿児島中央駅」に切り替わっていた。ま、これはしょうがないことかもしれない。



2004年に九州新幹線の新八代駅~鹿児島中央駅間が開通し、駅名を「西鹿児島駅」から「鹿児島中央駅」に改称した。ショッピングセンターや観覧車も隣接し、鹿児島駅とはケタ違いに派手。


 で、そろそろ、本題に入らなければならない。「カゴシマ」の地名が気になって仕方ないのだ。なぜ鹿児島なのだろう。由来はどこにあるのだろう。
 残念ながら、決定的な由来伝承が存在しない。古くから「カゴシマ」郡名になっていたが、『薩摩国風土記』は散逸してしまっている。「カコ」は「崖」の意味というが、どうにもしっくりこない。麑〈かご〉(鹿子〈かのこ〉)が棲んでいたからという考えもあるが、よく分からない。また、もともと桜島を鹿児島と呼んでいて(理由は定かではない)、対岸をふくめて郡名になっていったのではないかとも疑われている。
 どうにも気になって仕方ないのは、「籠」だ。鹿児島県といえば、高千穂が名高い(宮崎県と鹿児島県の県境の高千穂峰)。天皇家の祖神で天照大神の孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊〈あまつひこひこほのににぎのみこと〉が天孫降臨を果たした地として知られるが、天津彦彦火瓊瓊杵尊の孫たちが、日向(宮崎県、鹿児島県東部)の地で、「籠」と深くかかわっていくのだ。いわゆる海幸山幸神話である。



秋の高千穂峡。天照大神が地上を治めさせるため、孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を地上に下ろしたとされる。


 海幸彦にいじめられた弟の山幸彦はひょんなきっかけから海神〈わたつみ〉の宮で三年間暮らすことになる。しかも、豊玉姫〈とよたまひめ〉という美女と結ばれ、ウハウハな極楽生活だ。この時、山幸彦はどうやって海神の宮に行ったかというと、水が入り込まないように固く編んだ「無目籠〈まなしかたま〉」に乗せられたという。この「籠」が、無視できない。
 まず、籠を造る材料は竹で、南方系の植物だ。畿内に竹林がお目見えするのは、かなり時代が下ってからの話だ。その一方で、南部九州の隼人〈はやと〉と竹は強く結ばれている。籠は竹とつながり、竹といえば隼人や南部九州を思い浮かべる。
「カゴ」は、神武東征説話にも登場する。
 神武天皇はヤマト入りに際し敵に圧倒され、「とてもではないが、勝てない」と思ったが、神託を得て、天香具山の土を用いて祭祀を執り行った。すると、負けない体になったと確信するが、「天香具山〈あまのかぐやま〉」の「カグ」は「カゴ」にも変化し、これは「天の籠」と解釈できる。
「カゴ島」の神武は「カゴ」に乗って海神の宮に行った山幸彦の孫で、ヤマトに入ると「カゴ山」の呪術を執り行っているのだから、「カゴ」と黎明期の天皇には、何やら秘密が隠されているように思えてならない。やはり、鹿児島の「カゴ」は、「籠」ではあるまいか。
 あ、しまった。原稿が足りない。海幸山幸神話と、籠と、鹿児島と、天皇家の不思議な話を次回改めて。



九州にしかない新800系「つばめ」



みんなの憧れ「ななつ星」。九州の七つの県をめぐる寝台特急。3泊4日コースでは博多駅を出発し、湯布院や宮崎、隼人、鹿児島中央駅などを通り、阿蘇から博多へ。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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