第二十二話 真管




 近鉄大阪線の駅に「真菅[ますが]」がある。
「真菅」、どこにあるのか、そもそも近鉄大阪線がどこを走っているのかも、ほとんどの人が知らないはずだ。関西人なら知っているだろうが、他地域の人間には、とんと見当がつかない。近鉄大阪線は、大阪の「大阪上本町駅」から(特急は大阪難波から出ている)、鶴橋、近鉄八尾、大和八木、桜井、名張を通って、伊勢や名古屋につながる路線だ。
濃いなあ。濃い場所通るなあ。
 上本町は、上町台地の最も高い場所に位置する。かつて周辺は海だった。上町台地、もともとは、半島だったのだ。そして上本町の地名は、上町台地のちょうど真ん中付近だからつけられた。大坂城や難波宮と四天王寺の中間ぐらい。西側は、すぐ「ミナミ」「難波」「道頓堀」と言えば、分かりやすいか・・・・。
 近鉄大阪線は、古代のヤマトと河内をつなぐ要路を走っているわけだ。二上山を仰ぎみながら河内からヤマトに入り、桜井(纒向遺跡や三輪山、大神神社、海柘榴市のあたり)、伊勢や尾張(名古屋)にも通じるのだから、古代史重視路線なのだ。
 それにしても、関西の地理は歴史の宝庫だ。ただし、複雑すぎて、他地域の人間には、むずかしい。ここで少し、関西の地理と古代史、そして鉄道の話をしておこう。。
 そうだ。思い出した。十代半ばから奈良、京都に通い始めたが、京都と大阪を結ぶ阪急電鉄が、なぜ国鉄(現JR)の京都駅とつながっていないで、四条河原町が始発駅なのか、理解できなかった。しかも、行き先は「梅田」で、大阪方面に行くことは分かっていたが、大阪のどのあたりに連れて行かれるのか、着くまで不安でしかたなかった。何のことはない、国鉄大阪駅の脇にぴったり着くのだ。
 京都の四条河原町が八坂神社の門前町で、京都一の繁華街と知ったのは、だいぶたってからのことだ。また、京都の人間から観れば、国鉄の京都駅は、もともとは「鄙びた場所」なのだった。けれども当時は地下鉄も走っていなかったから、阪急や京阪電鉄の路線が国鉄の京都とつながっていない「現象」は、やはり理解できなかった。
 梅田の話もしておこう。
 太古の大阪のほとんどが水の中だった。当然、大阪の「梅田」は、「埋め立て地」だから「埋めた=梅田」なのだ。滋賀県(琵琶湖)、京都府南部、奈良県、三重県西部に降った雨と湧き水は、すべて上町台地の東側の河内湾に集まってくるわけで、運び込まれた土砂は、水の出口を塞ごうとさえしていたのだ。だから嵐のたびに湾の水位は上昇し、あたりは水浸しになった。『日本書紀』にも、ちゃんと、記録されている。仁徳十一年夏四月条には、河内の開墾の目的が書かれている。「少しでも長雨が降れば、海水は逆流し、里は船に乗ったように浮かび上がる」とある。だから五世紀のヤマト政権は、治水事業に乗り出した。上町台地に「放水路」「運河」を掘削して、たまった水を逃したのだ。これが難波の堀江で、大阪城の北側の堀としても利用された。堀江が完成して、河内はようやく安心して人の住める場所になった。世界一広大な大仙陵古墳(仁徳天皇陵。大阪府堺市。墳丘長四八六メートル)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵。大阪府羽曳野市。墳丘長四二〇メートル)は、どうやら治水の目的もあったようだ。



現在は大阪を代表する繁華街、大阪市北区梅田は、かつては水の中にあった。


 で、「真菅」の話はどこ行った。
「真菅」の駅名は、ここが「真菅村」だったことにちなむ。ただし、「真菅村」は「ますがむら」ではなかった。「ますげむら」と呼ばれていた。だから本当なら、「真菅駅」も「ますげえき」とするべきだったのだ。ところが、近鉄が「ますが」にしてしまったから、話がややこしくなった。同じ町内にある真菅小学校と真菅北小学校では、「ますげ」「ますが」と、別の読み方をしている。これは、大問題だ。



「ますげ」か、「ますが」か。ややこしさはここから始まった。


 それだけではないぞ。もっと、問題は広がっていく。『万葉集』にも、飛び火する。巻十二−三〇八七の歌をみよ。

ま菅[すが]よし 宗我[そが]の川原[かはら]に 鳴く千鳥[ちどり] 間[ま]なし我[わ]が背子[せこ] 我[あ]が恋ふらくは

 ここに、「真菅」の話が出て来る。「ま菅よし」は地名「宗我[そが]」の枕詞で、この歌の「宗我の川原」は、まさに「真菅駅の周辺」を指している。曽我川が流れるあたりだ。
 問題は、「ま菅よし」の「菅」を、小学館の「日本古典文学大系『萬葉集』」は「すげ」、岩波書店の「日本古典文学大系『萬葉集』」は「すが」と読んでいることだ。「ま菅よし」の万葉仮名(原文)はどうなっているかというと、「真菅吉」とあって、「菅」が「スガ」なのか、「スゲ」なのか、明記されていない。
「菅」は水辺にはえる植物(カヤツリグサ科スゲ属の多年草)で、草の名は、「スゲ」や「スガ」、二通りの読み方がある。ここに、混乱の原因があった。 
 一方、『日本書紀』推古二十年(六一二)春正月条に、推古天皇の蘇我氏を褒め称える次の歌が載る。

真蘇我[まそが]よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向[ひむか]の駒[こま] 太刀ならば 呉[くれ]の真刀[まさひ] 諾[うべ]しかも 蘇我の子らを 大君[おほきみ]の 使はすらしき

 ここでは「真蘇我よ」が、蘇我の枕詞「ま菅よし」と同じように使われている。また、「スガ」は「ソガ」でもあることがわかる。これは、ダジャレではない。「スガ」が音韻変化して「ソガ」になった可能性が高いのだ。蘇我氏ももともとはスガ氏だった可能性が高い。
 近鉄線の真菅駅の周辺は、蘇我氏全盛期の一族の拠点でもあり、式内社の宗我坐宗我都比古[そがにますそがつひこ]神社が祀られる。地元では「入鹿の宮」とも呼ばれている。推古天皇の時代に蘇我馬子が武内宿禰らを祀ったのがはじまりとされている。また、持統天皇が蘇我氏の祖神を祀らせたとも言う。一帯は弥生時代から古墳時代前期にいたる中曾司[なかぞし]遺跡でもある。
 それから、蘇我氏が活躍した「アスカ」も、「ア+スガ(スカ)」が語源だったようだ。やはり、スガとソガ氏は強く結ばれている。
 
 さて、「スガ」「ソガ」、奇妙なことに、さらに違う場所に飛んでいく。それが出雲のスサノヲさん(素盞嗚尊)なのである。
 スサノヲは八岐大蛇退治をしたあと、出雲の清地[すが]に至り、「ここがすがすがしい」と言い、宮を建てた。それが須賀神社(島根県雲南市大東町須賀)になった。
 なぜ、「須賀神社の場所がすがすがしかった」のだろう。菅は神聖な祭具にもなった。菅を刈り取って神聖な供物を供えるために敷いて使ったりしたのだ。竹と同じように、「菅」は神聖な植物だから、菅の群生地を「すがすがしい」といったのかもしれない。問題はこのあと、スサノヲの「スガ」も、「ソガ」とつながってくることなのだ。
 出雲大社本殿真裏に「素鵞社」がひっそりとたたずみ、ここはスサノヲを祀り「素鵞」は「すが」ではなく「そが」と読む。スサノヲと「スガ」「ソガ」が、ここでつながってくる。
 スサノヲの子に「清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠」という神がいる。この「清」は「スガ」だが、同一の神を「蘇我能由夜麻奴斯禰那佐牟留比古夜斯麻斯奴」と呼ぶ文書や神社がある。この場合、「スガ」は「ソガ(蘇我)」になっている。これはいったい何だ。
 蘇我氏といえば、渡来系と信じられ、あるいは仏教導入に積極的だったから、外来の文化に精通していると考えられがちだが、彼らは神祇祭祀とも関係が深い。
 それにしても、なぜスサノヲさんが、蘇我とつながってくるのだろう。このあたりの謎解きは、いずれお話ししよう。それよりもここで語っておかなければならないのは、「真菅駅」問題なのだ。
「真菅村」はもともと「ますげ」だったのだから、駅名も「ますげ」にもどしてほしいと願っている方が多い。そして、「関さんの力で、何とかならんものか」と、懇願されもする。しかし、まずもって、アラ還貧乏作家に、そんな政治力はない。買いかぶってもらっては困る。ただ今回、この連載で、日本の片隅に、「スガ・スゲ」をめぐる大問題が眠っている事実だけは、世間に知らせることができた。まずは、ここから、一歩一歩、話を進めていくほかはあるまい。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

シェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事