第九話「長野新幹線と古代史の妙なつながり」其ノ壱




 十代後半まで、野菜嫌いの偏食で、親に苦労をかけた。なんでも食べられるようになったのは、二十歳の夏の二ヶ月、長野県松本市でバスの車掌のアルバイトをしたからだ。一日三千円の日給、松本電鉄の寮に寝泊まりした。社員食堂で朝昼晩と食べられたが、量が少なく、つねに腹ぺこで、ひもじい思いをした。そのおかげで、「何を食べても美味しい」という体質に変化した。味噌汁は特別好きではなかったが、夜、社員食堂の余った味噌汁を、バイト仲間たちと奪い合うように飲み干した。
 漬け物にも目覚めた。美ヶ原〈うつくしがはら〉高原行きのバスは、美鈴湖〈みすずこ〉で十分前後休憩するが、乗務員休憩室に、お土産屋のおばちゃんが、白菜の漬け物の差し入れをしてくれた。地元の高原野菜を浅漬けにした単純なものだったが、これがたまらなくうまかった。「野菜がこんなにうまいのか」と、仰天したものだ。
 一度ひもじい思いをすれば、食べ物の好き嫌いなど、あっという間になくなってしまうものなのだ。
 あの二ヶ月の体験は、偏食だけではなく、大袈裟に言えば、人生そのものも変えてくれたように思う。新しい故郷が生まれたような気がした……。砂漠のように暑い松本盆地の夏。すぐ目の前の景色が霞んでしまうような、激しい夕立。夕焼けの輝き、昼の暑さが嘘だったかのような、夜風の冷たさ。まるで桃源郷に迷い込んだのではないかと思えた安曇野〈あづみの〉の神秘的な風景。凛とした絶景が広がる上高地。何もかもが、切ないほどに美しく、なぜか懐かしく感じた。



雄大な北アルプス山麓にのどかな田園風景が広がる安曇野。井上靖、東山魁夷と共にこの地を訪れた川端康成が「残したい静けさ美しさ」と評した。


 安曇野の牧歌的な景色は、あれから二十年もしないうちに破壊されてしまったが、だからといって、信州の魅力がすっかり消えてしまったわけではない。信州は吾輩にとって特別な場所になったのだ。
 なぜここまで、信州は吾輩をひきつけてやまないのか。信州の風、空気、星空は、格別だ。そして、同年代の男どもが全国から松本に集まり、毎晩飲み明かした青春の思い出が、小生を「信州大好き人間」にしてきたのだとばかり思っていた。けれども最近、「違うのではないか」と思えてきた。
「日本で一番好きな場所はどこか」と聞かれれば、「奈良か長野」と答える。「どちらかひとつ」と詰め寄られると、答えることができない。どちらもたまらなく好きなのだ。これはもう、魂の奥から湧き出てくる「狂おしいほどの気持ち」なのだ。「行ってみたい観光地で一番の場所」などという半端な気持ちではない。おさえきれない感情が、ふつふつと噴き出してくる。これは、ただごとではない。世界中、どこに、こんな気持ちにさせる場所があるだろう。
 そうそう、思い出した。松本でバスの車掌になると決めたとき、交際中の彼女は、「私を置いて?」と、悲嘆したものだ(こんなオッサンにも、そういう時代はあったのだ)。そして夏が終わる前に帰京し、彼女に捨てられることもなく冬を迎え、クリスマスプレゼントになにが欲しいかと彼女に尋ねられ、「松本市のバス停の名が記されている市街地図」と言ったら、どん引きされた。もしその時、「私と松本のどちらが好きなの」と皮肉を言われようものなら、迷うことなく「松本!!」と言いかねなかった。それほど信州が大好きになってしまったのだ(ひどい男だと自分でも思っているさ)。
 しかし、この「好きで好きでたまらない」「信州をドライブするだけで、恍惚感に包まれる」「女より松本」という「お病気」、いったいどうしてこうなってしまったのだろう。その謎が、最近解けたような気がするのだ。長野県と古代史は、深く結びついていたのである。
 信濃国に進出していたのは、物部氏と蘇我氏、そして天武天皇は、宮を建てようと考えていた。拙著を読まれている方なら分かるだろうが、彼らは吾輩の味方なのである。長野には、そういうつながりがあったのだ。吾輩のお病気の原因は、これだ!! おそらく……。
 そこで今回は、信越本線の長野駅の話だ。
 
「長野」という地名を聞くと、「おそらく太古の昔は、牧歌的な野原が広がっていたのだろう。それで土地の名が生まれたのだろう」と想像しがちだが、長野市の最初の地名「長野郷」は、もともと大阪の「長野」にあやかったものだった。「河内長野〈かわちながの〉」もそうだが、大阪府藤井寺市に「長野邑〈むら〉」があった。
 河内(大阪)の「長野」がなぜ信濃国に移ってきたのかといえば、もちろん古代まで時間を遡らなければならない。
 科野〈しなの〉(信濃)国造に任命されたのは日本最古の皇別氏族(神武天皇の末裔)多氏〈おおし〉で、彼らを背後から支えていたのが、古代最大の豪族・物部氏だった。その物部氏が、河内の長野とつながっていた。『日本書紀』雄略十三年三月条に、「餌我〈えが〉の長野邑を物部目大連に賜う」という記事がある。「餌我」は現在の大阪府藤井寺市国府、惣社〈そうしゃ〉の地域だ。この一帯に渡来系豪族が集まり、物部氏たちが支配していたのだ。なぜ、この場所に渡来人が集められたのだろう。理由は、やや複雑。
 大和川は奈良盆地から河内に流れ下り、餌我の北側に、巨大な河内湖を形成していた。物部氏がこのあたりから八尾市にかけて、生駒山に近い大阪の内陸部に拠点を構えていたのは、大阪市のほとんどが、昔は海と湖の底だったからだ。上町〈うえまち〉台地が、半島のように北側に延びていて、大坂城はまさにこの半島の高台に建てられた。また古代人は、大坂城のすぐ北側に、河内湖と瀬戸内海を結ぶ(ショートカットする)水路を掘った。これが、難波の堀江で、のちに大坂城の外濠に利用されることになった。難波の堀江は運河の役割と、河内湖に溜まった水を瀬戸内海に逃がす役割を担った。大和川の最下流域、瀬戸内海に抜ける河口部は、狭かったし、堆積物が増えて、河内湖はたびたび災難をもたらしたようだ。そこで堀江を掘るとともに、河内では巨大前方後円墳が造営され、どうやらこれが、治水工事を兼ねていたようなのだ。これを手がけたのは、物部氏と物部氏らが支配していた渡来系の豪族であろう。



約5千年前の大阪湾。巨大な河内湖のなかに上町台地が半島のように突き出ていた。河内湖からは鯨の化石が出土している。


 ちなみに、曽根崎心中で有名なお初天神は、上町台地(半島)の西側の小さな島々のひとつだった。大阪JR環状線の梅田駅の次、福島駅の「福島」も、船旅する者が風待ちをしたことで知られている。菅原道真が九州太宰府に左遷させられたときも、ここに立ち寄っている。天皇の重要な祭祀「八十島祭〈やそしままつり〉」がこの一帯で執り行われたのは、いくつもの島が点在していたからだろう。
 話が脱線した。要は、餌我(長野)の周辺に渡来人が集住していたのは、彼らの智識や土木技術を借り、治水工事や干拓事業を押し進め、河内を発展させようと考えたからだ。主導したのはヤマト政権だが、中心に立っていたのは物部氏だっただろう。そしてここに、渡来系の豪族・長野氏が住んでいたわけだ。彼らは百済か高句麗の出身で、騎馬民族の流れを汲んでいた。そこで物部氏は長野氏を信濃国に派遣し、馬を飼育させたのだ。
 河内(大阪)と長野をつなぐのは、長野氏だけではない。長野市の善光寺も、二つの場所をつないでいる。
 たとえば、『善光寺縁起』に、長野と大阪のつながりが、はっきりと記されている。
 善光寺を創建したのは信濃国伊那郡の土民・本田善光だが、本田善光と息子の善佐が信濃国守のお供をして都に出向いたことが善光寺創建のきっかけとなった。難波の堀江のあたりで、仏像が本田善光の背中に飛び乗ってきたのだ。この仏像、物部氏と蘇我氏の仏教をめぐる争いの最中、物部氏によって捨てられた仏像だった。推古十年(六〇二)、善光は仏像を信濃に持ち帰り、自宅に祀り、さらに皇極〈こうぎょく〉元年(六四二)に託宣があって、現在の地に移し祀られたのだ。



七年に一度の盛儀「善光寺御開帳」が行われる今春(2015年)がチャンス! 秘仏である御本尊の御身代わり 「前立本尊」を本堂にお迎する。


 物部氏の捨てた仏像を本田善光が信濃に持ち帰った……。はたして本当に、物部氏が仏像を捨てたのか、あるいは本田善光が物部氏から仏像をもらい受けたのか、定かなことは分からない。けれどもここに、大阪と長野の不思議な絆が見えてくる。それに、河内には善光寺がいくつも残されていて、こちらが元祖だったようなのだ。やはり、大阪と長野は、切っても切れない関係にある。そしてこのあと、さらに、物部氏と長野は絡み合っていく。
 ただし今回は、これでおしまい。次回は、善光寺と長野新幹線と古代史がなぜかつながってくるというお話をしよう。乞うご期待。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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