第十五話「阪急線の御影駅」其ノ壱




 今回は駅名の前に、ちょっとおしゃれでマジメな話から……。紳士淑女の大好きな、ワインとギリシャの話でござる。
 ワインの歴史は古い。今から数千万年前に、すでに人類はワインの味を知っていたよう。造ったのではなく、自然に発酵したワインを、ぺろぺろなめていたのだ。そして、ワインを意図的に造り始めたのは、一万年~八千年前のメソポタミアのシュメール人らしい。シリアのダマスカス近郊で、果汁の搾り器とブドウの種が見つかっている。「腐りにくいブドウ果汁」を手探りで造ったら、ワインになったというのが、本当のところのようだ。乾燥地帯の人間にとって「腐らない果汁」があるかないかは、死活問題だっただろう。困り果てた人間が知恵を絞って生まれたのが、ワインということなのかもしれない。
 時代は下り、紀元前一六〇〇~前一五〇〇年ごろ、濁っていたワインを濾過する技術が生まれ、やがてギリシアにワインとワインの造り方が伝わり、さらにローマ時代に、ワイン造りの技術は飛躍的に向上したのだった(『ワインの科学』清水健一/講談社)。
 ところで、日本列島のワインの歴史も想像以上に古い。縄文人たちは肉食だから? ワインが大好きだったのだ(本当か? 輸入していたのか? いや、造っていたのだ)。長野県や山梨県の縄文遺跡から、樽型や壺形の有孔鍔付〈ゆうこうつばつき〉土器が見つかっている。しかも、中にヤマブドウの種が残っていて、口縁部に穴が空いているのは、発酵の際に出てくる二酸化炭素を逃がすためと思われる。
 ただし、いつの間にか日本列島では、ブドウ酒は忘れ去られ、穀物で酒を造るようになったのだ。「御飯にワインは合わない」と飲兵衛たちは考えたのかもしれない。日本酒の原型がこうして出来上がっていく。



有孔鍔付土器。口は平らに作られ、
その下に刀の鍔〈つば〉のような帯が付けられている。
その上部に、小さな孔が一定間隔で空けられている。



 ヨーロッパ人がワインを飲むようになったのは、商売っ気のあるフェニキア人がギリシャに持ち込んだからだが、そのギリシャという半島国家(バルカン半島)は、近代史、現代史で重要な役目を負っている。遠い日本人には、このあたりの事情がよく飲み込めていないし、ギリシャ神話と哲学の国、そして、古代の民主主義を築いた文明国というイメージが先に立つ。しかし現実は、半島国家の悲哀を味わい続けてきた地域なのだ。同じ半島国家の韓国が何を考えているのかを知る上でも、無視できない。
 ギリシャを考える場合、ワインがそうだったように、東西の交流という視点が先に立ってしまう。間違っていないが、近代、現代のギリシャが抱える最大の問題は、ロシア(ソ連)とアメリカ、EUが、ギリシャとトルコの間に横たわるボスフォラス海峡の通交をめぐって、しのぎを削っていること、ふたつの勢力の狭間でギリシャが翻弄されてきたという事実だ。
 ロシアが黒海艦隊を地中海に展開するためには、このアジアとヨーロッパの境界を通過する必要があり、黒海艦隊が我がもの顔で地中海にのさばれば、スエズ運河を通って交易を行ってきたイギリスやヨーロッパの諸国にとって、脅威になったのだ。そのために、ギリシャやトルコを誰が支配下に置くかをめぐって、長い間、暗闘が続いてきたのだ。第二次世界大戦中、ドイツがギリシャに攻め入ったのも当然のことだった。戦後の冷戦も、イデオロギーの違いだけではなく、根本にはギリシャと対岸のトルコをめぐる主導権争いが隠されていたようだ。
 近年、ギリシャが財政破綻の危機に直面してもEUが見放せないのは、このような地政学上の大問題を抱えているからなのだ。一方で、弱ったギリシャにロシアと中国が飴をちらつかせているのも、同じ理由からだ。
 半島国家というものは、大陸(お隣)に強い者(国)が現れたら、そちらに靡〈なび〉くという習性がある。どこの国とは言わないが、中国やロシアとアメリカを天秤にかけているすぐ近くの国もよく似たところがある。
 なぜこんな話をしたかというと、日本にも、地政学的に見て「こことここは離れていて無関係に見えるが、つながるのは必然だった」という、盲点のような関係が散見できるからだ。
 そのひとつが「御影」〈みかげ〉である。関西の阪急電鉄神戸本線の御影駅(兵庫県神戸市東灘区御影)といった方が分かりやすいか。あるいは、御影石(花崗岩)の御影といった方がよいのだろうか。いやいや、関西屈指の高級住宅街といった方がよいかもしれない。いや、灘の酒所と言い直す手もある。菊正宗や剣菱といえば、分かってもらえるだろう。
「御影」の地名の由来は、この地に澤之井なる湧き水があって、そこに神功皇后が顔を映したのだという。美味しい軟水が湧き出ていたからこそ、酒を造る土地になったのだと思う。
 この「播磨〈はりま〉の御影」が、なぜか近江(滋賀県)の野洲〈やす〉とつながっている。しかも、弥生時代から続く関係だ。野洲市の小篠原遺跡から、計二四口の銅鐸が見つかっている。珍しかったのは、小振りな「聞く銅鐸」と大きな「見る銅鐸」両方が見つかっていたことだ。一方、兵庫県の御影の桜ヶ丘遺跡から、十四口の「聞く銅鐸」が見つかっていて、野洲と御影の共通する特徴は、原始絵画が描かれていた、ということだ。そしてこれは偶然ではなさそうなのだ。



袈裟襷文銅鐸(小篠原遺跡)。
祭祀などで音を鳴らした「聞く銅鐸」から、
時代を追って巨大化し「見る銅鐸」となっていった。



 古代の野洲市周辺を支配していたのは「安直」だが、彼らの祖は「天之御影神」〈あまのみかげのかみ〉といい、「御影」の神だ。さらに、桜ヶ丘遺跡近くの生田神社(神戸市)の祭神には「野洲明神」の名がある。これは無視できない。
 播磨と近江は離れているのに、なぜつながっているのだろう。鍵を握っていたのは、「タニハ」だ(筆者はヤマト建国前後の但馬、丹波、丹後の一帯を「タニハ連合」と呼んでいる)。
 播磨とタニハの境の分水嶺は標高百メートルに満たない。日本海と瀬戸内海を結ぶ峠の中で最も低く、両者は陸路でほぼつながっていたのだ。また播磨は、出雲街道を使って出雲にも出られる交通の要衝で、だからこそ戦国時代に姫路に城が建てられ、近世の徳川幕府は姫路城を重視したのだ。
 また、タニハは日本海側の天然の良港・角鹿(福井県敦賀市)から峠を越えて、琵琶湖を利用した。
 ヤマト建国の直前、日本海の覇権争いで、タニハは出雲と対立した。出雲は四隅突出型墳丘墓を北陸地方に広げ、かたやタニハは、越後の地域と手を組んだ。こうして日本海はたすき掛けの遠交近攻策のふたつの地域に分断されたのだ。だからタニハは、陸路を使って播磨に、水路を辿って近江に先進の文物を送り込み、発展を促し、味方につけたのだ。
 タニハを支配していたのはアメノヒボコ(天日槍)だ。『播磨国風土記』の中で、「アメノヒボコは兵庫県の瀬戸内海側で出雲神と戦った」と書かれている。史学者は無視するが、地政学的に言えば、タニハと出雲双方にとって、播磨は「敵に渡してはならない土地」だったのだ。
 播磨の御影と近江の野洲がつながっていたのは、アメノヒボコの構築したネットワークが機能していたからだろう。琵琶湖から瀬田川(宇治川)を下れば、一気に京都の宇治に出て、そこから巨椋〈おぐら〉池、淀川をさらに下れば、大阪湾に出る。瀬戸内海を西に向かえばそこは播磨で、ここから北東に陸路を進めば、難なくタニハに出られる。ここに、これまで気付かなかった、経済圏が浮き彫りになってくる。
 ギリシャだけではなく、日本にも歴史を動かした地勢上の制約はあったのだ。
 この話の続きは、次回。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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