第五話  君知るや、奈良の京終駅(第三回)




 生かさず殺さずの鬼編集長(美人です)の督促があって、気になっていた原稿を、ようやく書き始めることにした。
 昨夜、とある知己と電話で話をしていて、「長電話は嫌いだ」といったら拗ねるので困惑し、「電話は用件だけ伝える道具」だということ、拙者がそういう教育を受けてきたことを説明した。その時思い出したのは、電話機が家にやってきたのが、小学四年生のころだった、ということだ。それまで家に電話機はなかった。
 それで、電話中の「若い知己」は、「電話がない」という状態が信じられないことらしく、「友達と連絡するときはどうしていたの?」と、バカな質問をしてくるので、あきれ果てて電話を切ってやった。
 そうそう。電話が家にやってくる以前、家には黒塗りの受話器があるにはあった。しかし、かけたい所にはかけられず、夜中になると呼び鈴がけたたましく鳴り出すという、迷惑きわまりない代物だった。一般家庭では普通あまり見かけない「鉄道電話」である。
 愚父が信号関係の鉄道員で、大きなプロジェクトが始まると、いろいろトラブルが発生し、しかも、大工事は終電が終わったあとに行なうため、緊急の電話は、必ず真夜中や明け方に鳴るのだ。狭い官舎だったから、トラブル発生のたびに、家族全員たたき起こされた。けっこう頻繁に、トラブルは起きた。
 で、この鉄道電話、日本全国の国鉄の関連施設には通じていたが(たとえば、東京駅の電話番号とかは専用の電話帳に載っているわけで)、肝心の「お友達と連絡する」ことには不向きな道具であった。友達がたまたま東京駅の駅長だった、あるいは国鉄総裁が親友、というのなら話は別だが……。だから友達とお話をしたいときは、「~君、遊びましょ」と、訪ねていくのがあたりまえだった。だって、それがあたりまえでしょ? 電話なんて、みんな持っていなかったわけだから……。

 あ、それでまた、思い出した。
 昨日、名刺を作りに行った。若い受付嬢が、「連絡先の携帯を」というので番号を教えたが、「かけても出ないよ」というと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたので、「出かけるときだけしか、電源入れない」「ほとんど出かけない」「だから携帯、つながらない」といったら、「ぷ~」って、吹きやがった。ばかやろう!!

 ま、いいや。京終の話を終わらせないと……。もう一度確認しておくけど、京終は「きょうばて」と読むのだぞ。
 さて、桜井線のJP京終駅の手前が、JR奈良駅だ。「奈良」は、朝鮮半島の「国」を現す言葉から来ているというのが今日的解釈で、通説、定説になっている。
ただし、『日本書紀』は、もっと別の説話を用意していた。これが意外に面白いので、ちょっと触れておきたい。それは、「崇神(すじん)十年秋九月の条」だ。これはヤマト建国の黎明期(れいめいき)のこと、四人の将軍が各地に派遣された。
 ちなみに、崇神天皇は第十代の天皇で、「ヤマト黎明期」という表現は、本来ならばふさわしくない。けれども通説は、「初代神武(じんむ)天皇と崇神天皇は同一人物」とみなしている。理由はいくつもあって、ふたりとも「ハツクニシラス天皇(はじめて国を治めた天皇)と呼ばれていること、ふたりの記事を重ねてみると、ちょうどひとりの事績となるからだ。このため通説は、『日本書紀』が天皇家の歴史を古く見せかけるために、初代王をふたりに分解してしまったというのだ……。
 ただし実際には、ふたりは同時代人ではなかったかと小生は睨んでいるが、その話はまた別のところで話そう。
 閑話休題、『日本書紀』の記事にもどろう。北陸に遣わされた将軍・大彦命(おおびこのみこと)が、和珥坂(わにのさか)(奈良県天理市)に至ったとき、少女が奇妙な歌を歌っていた。



和珥坂伝承地。和爾下坐赤阪比古神社から、
「和珥坂下伝承地道」の案内板に従って行く。
舗装されていない細い下り坂を下りると伝承地に出る。


御間城入彦(みまきいりひこ)はや 己(おの)が命を 弑(せ)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊(ひめなそ)びすも

「御間城入彦(崇神天皇)は、殺されることも知らず、呑気に若い女性と遊んでいる」というのだ。不審に思った大彦命は引き返してありのままを奏上すると、ヤマトを代表する巫女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が「それは武埴安彦(たけはにやすびこ)が謀反(むほん)を起こす前兆」といい当てた。武埴安彦は崇神天皇の叔父だ。
 武埴安彦と妻の吾田媛(あたひめ)は本当に謀反を起こし、攻めてきた。夫の武埴安彦は山背(やましろ)(京都府。ただし「山背」は、「ヤマトの後ろ(背)」のことで、木津川流域をいっている。のちの時代に「山代」「山城」の二文字があてがわれ、もっと広い地域を指すようになった)から、妻は大坂(奈良県香芝市穴虫。二上山の北側)から攻め寄せてきた。大彦命らは那羅山(ならやま)(奈良市北方の丘陵地帯)に陣を敷き、武埴安彦と対峙した。そしてこのあと、「奈良」の地名説話が載っている。
 官軍(天皇の軍隊)は、群れ集まり、草木を「踏みならした」。それで、この山は「那羅山」と呼ぶようになった……。つまり、「あなたとなら(古いか? 国鉄時代のキャンペーンで使われたフレーズ)」の「奈良」は、「地面を踏みならした」が語源だったというのである。
 このあと官軍は、山背の輪韓河(わからがわ)(木津川)の北側で埴安彦を討ち取った。賊軍は逃げ惑い、フンドシから屎(くそ)(『日本書紀』にそう書いてある)が漏れ、屎が落ちた所を「屎褌」(くそばかま)と呼んだ。これが訛って、「樟葉(くすは)」(大阪府枚方市楠葉(くずは))になった(ずいぶん遠くまで逃げて、しかも、びびっていたわけだ……)。



京阪電鉄京阪本線樟葉駅。大阪府最北端の駅となる。


 そうだ。大切なことを言い忘れた。
 クソまみれの地名説話だからといって無視できないのは、武埴安彦の反乱と考古学が、妙な具合に合致してきてしまうからなのだ。
 京都府木津市(ようするに山背)には、三世紀末から四世紀中頃の二つの巨大前方後円墳が存在する。そのうちのひとつは椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳で、鉄製武器、工具、農具、漁具のほかに、大量の銅鏡(画文帯神獣鏡一面(がもんたいじんじゅうきょういちめん)と三角縁神獣鏡三十二面(さんかくぶちしんじゅうきょう))が埋納されていたことで知られる。
そして、京都と奈良を結ぶJR奈良線が、前方後円墳の後円部のど真ん中を刳り抜いて線路を敷いていることも有名だ。今なら反対運動が起きて、こんな工事は許されないだろう。



椿井大塚山古墳。山城地方最大の前方後円墳。1953年(昭和28)、古墳の後円部を南北に走る現在のJR奈良線(当時は国鉄)の拡幅工事が行われた際、偶然、竪穴式石室が発見された。


卑弥呼の鏡ともよばれる三角縁神獣鏡三十二面。竪穴式石室内から三角縁神獣鏡三十ニ面を含む四十面近い銅鏡や、多くの副葬品が発掘された。初期大和政権の勢力圏が推定されるとして大きな注目を集めた。


 それはともかく、椿井大塚山古墳は、三輪山麓(みわさんろく)の箸墓(はしはか)(箸中山古墳。最初期の前方後円墳)とまったく同じ形で、規模は三分の二だ。つまり、まさにヤマト建国の黎明期、ヤマト政権と山背の首長は、仲良く共存していたことがわかる。ところがこののち、この一帯に巨大古墳は造られなくなる。それはまるで、武埴安彦の滅亡が事実であったかのような現象ではないか。通説も、「山背の首長は二代で滅亡した」と指摘している。それもそのはず、水運の要「木津川」が古代史の大きな鍵を握っていて、「木津川をめぐる覇権争い」こそ、黎明期のヤマト政権にとって、死活問題だったのである。
 理由は簡単。古代の京都府南部は、巨大な湖水、湿地帯で、JR奈良線が京都からまっすぐ南に向かっていたのに桃山(ももやま)駅から東側に大きく膨らみ、宇治(うじ)駅の先で元の南北のラインに戻るのは、線路の西側に巨大な巨椋池(おぐらいけ)が存在していたからなのだ。琵琶湖から宇治川を漕ぎ出せば、一気に巨椋池に流れ下り、さらに淀川の先には瀬戸内海が広がる。また、木津川を溯れば、武埴安彦の乱の主戦場の一帯に出る。つまり、武埴安彦は巨大流通ルートを支配していた人物だった。ヤマト政権にとって、これほど危ない人物はいない。ヤマト政権と武埴安彦は、当初笑顔で握手したが、足元では蹴り合いをしていたというのが実態であろう。木津川と巨椋池の利権を奪うことで、ヤマト政権は盤石な体制を敷くことができたのである。

 今回は、聖武(しょうむ)天皇の話をするはずだったのに、また、違う話をしてしまった。次回こそ、京終の回を終わらせる覚悟でござるよ。


関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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