第二十話 奴国と伊都国の争い 其ノ参




 今年二月、とある出版社の編集者と、熊野古道(三重県から和歌山県)を旅した。もちろん仕事で、紀行文を書いた(とある文庫。十一月発売)。名古屋から関西本線と紀勢本線を使って紀伊半島を一周したあと、和歌山駅で編集者と別れ、吾輩は和歌山市に一泊した。和歌山県は三度目の訪問だが、いつも高野山周辺だけで、和歌山市内は初めてだ。翌日、紀伊風土記の丘と神社をめぐって、和歌山ラーメンを堪能して、昼過ぎの特急くろしお号に飛び乗った。
 ところで特急くろしお、終点は新大坂なのだが、なぜか大阪駅には止まらない。これには驚いた。
「どういうことだろう。ずいぶん思いきったことするな。なぜ、通るのに止まらない? 新幹線に乗る観光客に特化した特急というのも、めずらしい」
 関東で喩えるならば、川崎発新横浜行きの在来線特急(実在しないですよ。念のため)が、「あの横浜駅」を素通りするようなものです。はたして、プライド高い浜っ子が、これを許すだろうか……(「横浜に行くのに湘南新宿ライナーに乗ったら、横浜で止まらない列車に乗ってしまった~」という編集長の指摘あり。なんじゃそれ~。怒れ、浜っ子)。てなことを妄想していたら、特急くろしお、意外な行動に出ましたね。環状線の福島駅を通過し、その先(大阪駅のすぐ手前ですな)で、梅田信号所(旧梅田貨物駅、北梅田ヤード。大阪駅北地区。かつては貨物と車両基地の機能を兼ね備えていた。現在、レールは取り払われている。また、ヤードは操車場のこと。以下「ヤード」)にルート変更しやがった。ショートカットして大阪駅をすっ飛ばして、「ずる」をしていたのだ。こいつは驚きだ。赤羽線が埼京線になって埼玉県と新宿、渋谷をつないだ時よりも衝撃的だ~。
 梅田貨物駅はJR大阪駅北側を、ほぼ占拠していた。とは言っても、無用の長物だったわけではない。貨物列車が物流の主役だった時代、ここは巨大で重要なジャンクションの役目を果たしていた。しかし、街の発展には邪魔で、高速道路網が発展し、鉄道貨物の需要が減ったことで、ようやく巨大開発が始まったという次第。
 ちなみに、ヤードはただの駐車場、待機場、集積場、荷下ろし場ではない。何をするのかというと、各地からヤードに届けられた貨車を、行き先別に振り分ける(つまり、荷物は目的地ごとに貨車やコンテナに乗せられているわけだ。当たり前と言えば、当たり前)。具体的には、枝分かれしたレールに、貨車を行き先ごとに分別して(ポイントを切り替えて)流すわけだ。貨車に再び機関車(蒸気、ディーゼル、電気)を連結して、目的地に向かう。



在りし日のJR梅田貨物駅。2013年3月、
吹田貨物ターミナル駅に移転する形で役割を終えた。
現在、梅田貨物線の地下化整備が進められている。



 梅田(キタ。大阪駅周辺)は西日本一の繁華街だが、これはJR大阪駅(阪急、阪神電鉄、地下鉄は「梅田駅」)の南側のことで、駅の北側は長い間ヤードでふさがれ、商いをすることは絶対に無理だったし、東西の交通を完ぺきに遮断していたのだ(恐ろしいほど広大)。これは、都市計画の観点から言って、正しかったのかどうか……。
 もっとも、近代日本が鉄道を敷く目的は国策で、「物流」と「軍事」を最優先にしていたことは間違いないし、明治時代、鉄道が敷かれる直前の梅田を見た人々は、「まさか大都市に発展するはずもない」と考えたにちがいない。だから、大阪駅の北側を貨物のヤードが占拠しようとも、弊害はないと考えたのだろう。というのも、梅田は「良い土地」ではなかったのだ。湿地帯に毛の生えたようなものといっても、差し支えないだろう。
 梅田(大阪)駅の近くに曽根崎心中で名高いお初天神が鎮座するが、古くは海に浮かぶ島だった。梅田も「埋め立てて田にした」場所で、さらに、大阪環状線の大阪駅の次の駅「福島」は、「本物の島」だった。菅原道真が意地の悪い藤原氏の陰謀にはめられて九州の大宰府に左遷(本当は島流しのようなもの)させられた時、福島から西に向かって船出している。
 かつて天皇家はこの一帯で「八十島祭」を行なっていたが、そのころは梅田駅周辺が「多島海」だったから「八十島祭」なのだ。そもそも古代の大阪は、たびたび水害に見舞われる場所だった。
 連載第九話「長野新幹線と古代史の妙なつながり 其ノ壱」で語ったように、淀川は、大阪府のみならず、京都府南部、滋賀県、奈良県北部に降った雨や湧き水が集まって流れ下ってくる場所であり、大坂城のある上町台地は海と湖(河内湖)に挟まれた半島で、水の出口は上町台地の北側だけで、土砂が堆積し、放っておけば、塞がってしまう可能性もあった。大雨が降れば、河内湖の水位は、簡単に上昇した。河内湖は、「暴れる湖」だったのだ。古代王が難波の堀江(大阪市中央区。現在の天満川)を掘削して水を逃し、大阪はようやく人の住める場所に変身したのだ。ちなみに、ほぼ同時期に作られた大仙陵古墳(仁徳天皇陵。大阪府堺市)などの巨大前方後円墳も、治水のためと考えられている。複数の巨大前方後円墳の周濠を、水路でつないでいた痕跡が見つかっているのだ。
 何を言いたいかというと、明治時代のお役人は、「梅田の北側に商店街を造っても、誰が買い物に来るか」と考えたにちがいないのである。
 北梅田ヤードは、福島駅と新大阪駅をつなぐ線路だけ残して、消えた。ここから先、JR大阪駅の北側一帯は、人工的な商業都市とオフィス街となって、急速に発展していくのだろう。



水を湛えた三重の濠に守られる大仙陵古墳。
かつては「仁徳天皇陵」と呼ばれていたが、
近年の調査の結果、古墳に眠るのが仁徳天皇と
断定できないということになり、「大仙陵古墳」
と呼ぶようになった。


 さて、古代史だ。
 交通手段の変化、盛衰によって、国の統治システムや、地方都市のあり方ががらっと変わった例がある。それが、天武天皇による道路網の整備だ。
 つい最近まで、日本中(東北北部を除く)に七世紀後半に「高速道路網」(もちろん官道)が築かれ始めていたことなど、誰も知らなかったのだ。発掘調査によって「巨大な道が走っていた」ことが、分かってきた。衛星写真からも、古代道路の痕跡が確認できる。驚くべきことに、道幅は十メートル前後あった。側溝が設けられ、水はけも考えられていた。「ほぼ直線」で要衝を結んでいて、そのルートは現代の高速道路網によく似ているのだという。総延長は、約六千三百キロにおよぶというから驚きだ。
 なぜ、このような大掛かりな事業がこれまでわからなかったのだろう。それは、いつの間にか道路が使われなくなったこと、そして『日本書紀』が、まったく記録しておかなかったからだ。連載中述べてきたように、天武天皇は『日本書紀』編纂時の権力者・藤原不比等の政敵だった。独裁者藤原不比等は、いけ好かないヤツの功績を、歴史から抹殺したのだ。
 巨大道路網が整備されて、とばっちりを受けたのは、「埼玉県」である。
 古代の武蔵国(埼玉県と東京都、神奈川県の一部)の国府と言えば、東京都府中市が有名だが(国府が置かれていたから府中の地名になった。お隣が国分寺市なのも、同じ理由から)、ここは奈良時代に造られたもので、それ以前は埼玉県行田市が武蔵を支配していた。関東の中心は群馬県(上毛野国)で、利根川流域が栄えた。ヤマト政権は日本海から信濃川をさかのぼり、碓氷峠から下った群馬県に、拠点を構え、関東平野に強い影響力を及ぼしたわけである。
 ちなみに、巨大前方後円墳は、群馬県と埼玉県、千葉県の房総半島に存在するが、神奈川県にないのは、群馬県から東京湾に流れ下る利根川(今の利根川は流れを変えてある)が流通の大動脈だったからだろう。
 ところが、古代版ハイウェイが整うと、都から関東に赴き、あるいは都に上るには東海道経由が便利になった。そこで、神奈川県から関東北部や東部に向かう道の途中にある府中市が、重視されるようになったのだ。陸路の分岐点になると同時に、多摩川の水利が利用可能だった。
 このように、交通手段が入れ替わるだけで、それぞれの土地の地政学上の意味が変わってくるのだ。それは、古代も現代も、同じことなのだ。



関 裕二 (せきゆうじ)

1959年千葉県柏市生まれ。歴史作家。仏教美術に魅せられ、足繁く奈良に通う。『古代史謎めぐりの旅 出雲・九州・東北・奈良編』『古代史謎めぐりの旅 奈良・瀬戸内・東国・京阪編』『仏像と古代史』(すべてブックマン社)、『蘇我氏の正体』(新潮社)、『東大寺の暗号』(講談社)、『神社仏閣に隠された古代史の謎』(徳間文庫)、『捏造だらけの「日本書紀」』(宝島社)など著書多数。

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